連載
下町やぶさか診療所
第二章 二人三脚・前 池永 陽 You Ikenaga

「おうい、麻世。今夜のお菜は何だ。ちゃんと食えるものか」
 食卓の椅子に腰をかけて、麟太郎は台所に声を飛ばす。
「今夜はロールキャベツだ。根性さえあれば食えるはずだから心配するな、じいさん」
 互いにいいたいことをいっている。
 麟太郎はこうしたやりとりが嫌いではなかった。たったひとつ、じいさんという呼び方さえなければ。
「また、料理本を見ながらつくってるのか。大変だな、にわか料理人も」
 笑いながらいうと、
「じいさんだって最初から医者じゃなかっただろう。それが曲がりなりにも診療所をやってるんだから、向上心というのは立派なもんだ」
 すぐに反応が返ってくる。
「向上心か、いい言葉だなあ。そんな言葉がすらすらと口から出てくるということは、それだけ麻世も向上したということなんだろうなあ」
 さて、どんな言葉が返ってくるかと待っていると、
「あのなあ、じいさん。料理に集中できないから、くだらないことをいうのは、ちょっとやめてくれると嬉しいんだけどな」
 麻世のみごとな反応に、麟太郎は頭を一時間ほど前の電話のやりとりに切り換える。相手はボランティア活動で老人介護を行っているNPO法人に所属する女性で、矢田久子の担当だった。
 その女性に矢田の家の状態を訊くと、
「家のなかは足の踏み場もないほどちらかり放題で、久子さん、相当暴れてますね」
 という答えが返ってきた。
「かなり、手のつけられない状態になることがあるそうで、家のなかには糞尿の臭いがこびりついていますよ。ですから、ご主人はかなり参っている様子です。家の清掃と病人のお世話しか私たちにはできませんから、何とも仕方がありませんけど」
 その女性はこんなこともいっていたが、何とも仕方がないというのは、医者の自分も同じだった。疾病(しっぺい)を抱えている人間を目の前にしながら対処の方法が何もないのだ。医者として、これほど悔しくて情けないことはなかった。仕方がない――こんな言葉ひとつですましていいものなのかどうか。麟太郎は大きな吐息をもらす。
「どうかしたのか、じいさん」
 顔をあげると、テーブルの向こうに湯気のあがる味噌汁の椀を持った麻世が立っている。どうやら食事の支度が終ったらしい。そっと味噌汁の椀をテーブルの上に置く麻世に、麟太郎は矢田のことをざっと話して聞かせた。そして、
「麻世は、こういうときはどうしたらいいと思う」
 こんな問いを麻世にぶつけた。
「そんなこと私には難しすぎるよ。じいさんにわからないことが、私にわかるはずがないじゃないか、ただ」
 と麻世は言葉を切ってから、
「ほんの少しでもいいから、みんながその人のことを考えてやれば……そうすれば、その人は元気づけられるから。誰でも一人ぼっちは淋しいから。誰でもいいから、その人のことを思ってやれば、それだけでも気持のほうはちょっとだけかもしれないけど、安まるような気がするよ」
 つかえつかえ、そんなことをいった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)