連載
下町やぶさか診療所
第二章 二人三脚・後 池永 陽 You Ikenaga

 五分ほどして矢田は診療所にやってきた。
 居間のほうに招き入れると、肩で大きく息をして喉をぜいぜい鳴らしている。どうやら走ってきたようだ。
「大先生!」
 矢田は息を切らしながら、泣き出しそうな声をあげた。
「落ちついてください――久子さんがいなくなったのに気がついたのは、どれぐらい前ですか。正確な時間はわかりますか」
 力強い声で麟太郎は訊く。
「気がついたのは一時間ほど前です。そのとき私は食事の後片づけをしていて、久子に注意を払っている暇がなく、気がついたら家のなかからいなくなっていました」
 ちょうど潤一がロールキャベツの食事を終えて帰ったころだ。
「いちおう確認しておきますが、家を出たときの久子さんの服装はわかりますか」
 何気なく麟太郎が質問すると、
「それが……」
 矢田が掠(かす)れた声をあげた。
「何か変った服装で久子さんは外へ?」
「変ったといえば、そうともいえるんですが、寝間のタンスのなかが引っくり返されていて、そのなかから多分ベストを……」
 歯切れの悪いいい方をした。
「ベスト?」
 怪訝な声を麟太郎は出す。
「はい、あの。柄はオレンジと濃茶のストライプの編みこみなんですが、下のほうに、その、小さなハートの連続模様が入っていて」
 恥ずかしそうに矢田はいった。
「ハートの連続模様ですか!」
「実は三年前が私たちの金婚式にあたる年で――そのとき久子に、たまには外で食事でもして、何か記念になるような物でも買って帰ろうかと提案したんです」
 祝ってくれる者など誰もおらず、二人だけの金婚式だったと矢田はいった。
 食事と買物といっても、わずかな年金で暮している矢田夫婦に贅沢は無理だった。若いころに二人でよく行った洋食の『ヨシカミ』でオムライスを食べ、近くの喫茶店でゆっくりとコーヒーを飲んでから千束(せんぞく)商店街を仲よく寄りそって歩いた。そのとき久子の足が急に止まった。
「あれにしない、記念になる物」
 洋品店の表にぶらさげられた商品を久子は指差した。オレンジと濃茶のベストで下にはハートの連続模様、しかもペアルックだった。
「あれって、ペアルックをか」
 驚いた声をあげる矢田に、
「そう、ハート模様のペアルック。この年だもの、もう恥ずかしさもそれほどないし。というより、うんと若返るつもりで、値段もかなり安いしね」
 久子ははしゃいだようにいった。
 値段は二着で二千円を切っていた。
 金婚式の記念品はこのベストにきまった。
 それを着て久子は出ていったようだと矢田はいった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)