連載
下町やぶさか診療所
第二章 二人三脚・後 池永 陽 You Ikenaga

「金婚式の記念にペアルックですか、それはいい、実にいい」
 本当に羨(うらやま)しそうにいう麟太郎に、
「すでに認知症が進んでましたから。それで、そんなびっくりするようなものを久子は選んだんじゃないでしょうか」
 矢田は自嘲ぎみにいった。
「そんなことないよ」
 ふいに疳高(かんだか)い声が響いた。
 二階につづく階段の踊り場に麻世が立っていた。
「女が着る物を選ぶときに、認知症は関係ないよ。奥さんは本当にそれが欲しかったから選んだんだよ。女にとって着る物は認知症もへったくれもないよ。純粋な気持で、それを選んだんだよ」
 叫ぶようにいった。
「おい、こら、麻世」
 慌てて麟太郎が声をあげると、
「ごめん――何だか非常事態の気配がして下りてきたら、ちょうど二人の話が聞こえてきたから」
 麻世は階段を下りてきて、
「それで、おじいさんはそのペアルックのベストをちゃんと着たの?」
 矢田の顔を凝視した。
「久子は時々着ていたようだけど、私のほうはやっぱり、恥ずかしさが先に立って着ることは……」
 蚊の鳴くような声でいった。
「ちゃんと着ないと駄目じゃない。まったく男っていうやつは、体裁ばかり取りつくろう動物なんだから」
「麻世、ちょっといいすぎだ――いや、そんなことより」
 麟太郎は慌てた声を出し、ケータイを手にしてあちこちに電話をかけ出した。しばらくしてから、
「町内会の主な連中に声をかけましたから、みんな出てきて捜してくれるそうです。それから念のために、浅草署のほうにも連絡をしておきましたので、いざというときには出動してくれるはずです」
 麟太郎は矢田に向かってうなずいた。
「ありがとうございます。あいつに、もしもの事があったら私は……」
 頭を下げる矢田に、
「じゃあ、私たちも行きましょう」
 麟太郎ははっきりした声でいい、
「そういうことだから、お前はここで留守番だ。もし何か連絡が入ったら、俺のケータイにすぐに電話をしてくれ」
 麻世に向き直って指示を出した。
「わかった、すぐに電話する」
 こくっとうなずく麻世を残して、麟太郎は矢田と一緒に診療所を飛び出した。

 二日後、矢田は久子を連れずに一人で診療所にやってきた。
「お一人ですか、矢田さん」
 診察室で向きあって声をかけると、
「はい、すみません。今日は私一人でこさせてもらいました」
 矢田は頭を深く下げた。
「あれからまだ二日ですから、さすがに久子さんも疲れているのかもしれませんね」
「そうですね。昨日今日は暴れることもなく、おとなしくというより、ぐったりしていた様子なのでお礼方々、こうして一人でこさせてもらいました」
 矢田はまた丁寧に頭を下げる。
 あの夜、久子はみんなで捜し始めてから一時間ほどあとに発見された。見つけたのは水道屋の敏之だ。
 いたのは矢田が電話をかけてきた今戸(いまど)神社のすぐ裏で、久子は側溝に体の半分がはまりこんで身動きできない状態で唸(うな)っていた。敏之からの電話で麟太郎はすぐに現場にかけつけ、久子を診療所に運びこんだ。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)