連載
下町やぶさか診療所
第二章 二人三脚・後 池永 陽 You Ikenaga

 詳細に全身を診(み)たが骨などに異常はなく、擦過傷があちこちに見られるだけで大事にはならずにすんだ。ただ、久子のお気に入りだったペアルックのベストは、半分ほど泥水に漬かって汚れていた。
「しかし、あれだけですんで、本当によかった」
 ほっとした声をあげる麟太郎に、
「でも大先生、今はおとなしくしていますが、あと少しすればまた暴れ出して、家のなかは地獄になります」
 喉につまった声で矢田はいった。
 両肩をすとんと落してうつむいた。
 そうなのだ。今日の矢田は麟太郎に様々な話を聞いてほしくてやってきたのだ。
「どこの家でも認知症の場合、介護をしているほうの精神と体が参ってしまいますからね」
 優しく麟太郎は矢田に声をかける。
「私も心臓に爆弾を抱えていますし、このままだと久子よりも私のほうが先に逝(い)ってしまうんじゃないかと。近頃はそんなことも頭を掠めていきます」
「そうですね。矢田さんが倒れでもしたら、久子さんは一人ぼっちになってしまいますからね――どれ、ちょっと様子を診てみましょうかね」
 麟太郎はいうなり、矢田のシャツの下に聴診器をもぐりこませて耳を澄ます。今のところ心拍は正常で不整脈も見られない。
 聴診器をはずして、右の手掌で腹部を押してみるがこっちも違和感はない。引っかかってくる物はない。
「今のところ、大丈夫ですよ、矢田さん」
 励ますように声をかける。
「はい、ありがとうございます。私が丈夫でなければ、久子の面倒を見ることもできなくなりますから」
「そうそう。矢田さんあっての久子さんですから、体だけは大切にしないと」
 膝に置いた矢田の手を軽く叩く。
「久子あっての私でもありますし……あいつに逝かれたら私も一人ぼっちになってしまいます。遠くに住んでいる子供を当てにすることもできませんし。私には久子だけしか、あいつだけしか」
 そう口にしてから、突然矢田の体が小刻みに震え出した。
「その久子が、今は食事をするとき手づかみです。あの、しとやかだった久子が手づかみで動物のように食べるんです。辛(つら)いです、情けないです。トイレも普通に行けなくて、今は紙おむつのお世話になっています。その紙おむつを久子はむしり取って壁に投げつけるんです。汚物が家中にこびりついて、まるで動物の檻のなかに住んでいるようなものです。辛いです。でも悲しいことに、そんなことにも慣れつつあります。悲しすぎることですけど」
 一気に矢田はいった。
 両の目が潤んでいるのがわかった。
「わかります、矢田さん。矢田さんの気持はよくわかります。申しわけありません。医者でありながら、患者さんの苦しみを見ているだけで何もしてあげられない。情けなくなります。本当に申しわけなく思っています。無念です」
 本心だった。
 患者の辛さは医者の辛さだった。そして介護者の苦しみは医者の苦しみでもあった。しかし、どうしようもなかった。かといって手をこまねいているわけにはいかない。
「矢田さん、頑張りましょう。私も頑張りますから、矢田さんも頑張ってください。みんなで助け合えば、何か最良の方法が見つかるはずです。私もそれを考えますから、矢田さんも考えてみてください」
 矢田の細い肩を両手で揺さぶった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)