連載
下町やぶさか診療所
第二章 二人三脚・後 池永 陽 You Ikenaga

「最良の方法なんて、あるものでしょうか」
 ぽつりといった。
「あるはずです。何かきっとあるはずです。考えれば何かきっと……」
 絞り出すような声で麟太郎はいった。
 すがるような目が麟太郎を見ていた。
 矢田はそれから十五分ほどして診察室を出ていった。
「大先生、認知症に対する最良の方法なんて、あるんですか」
 看護師の八重子が溜息まじりの声を出した。
「そうだなあ……」
 麟太郎は腕をくんで宙を睨みつける。
「特効薬ができればいちばんいいんだが、我々臨床医はそれができるのをじっと待つしか術(すべ)はないからなあ。まったく情けない話だよな」
 ぼそっといってから、
「あとは、愛とか真心とか、思いやりとかいう綺麗な言葉しかないが……あまりにも綺麗すぎるなあ」
 独り言のように口にした。
「そうですね。綺麗すぎる言葉ですね。その綺麗な言葉の向こうには、どれほどの辛さと悲しさがあるか。それを考えると本当にやりきれなくなります。高額な施設は普通の人間には問題外ですし、安い施設はかなりの順番待ちです……」
 八重子の低い声に、
「俺も八重さんも、いつ認知症になってもおかしくない年になってるのも確かだしな。まったく気が重くなるよ」
 麟太郎は小さく首を振る。
「大先生は、まだお若いですよ。そこへいくと私なんか本当にいつどうなっても、おかしくない年ですから」
 ひときわ大きな吐息をもらした。
 八重子は若いころに一度結婚していたが、五年ほどして離婚。それからはずっと独り身を通し、今は診療所近くのアパートに住んでいる。別れた男との間に子供はなく、文字通り天涯孤独の身の上だった。

 一週間ほど何事もなく過ぎた。
 夜の十一時過ぎ。今夜の『田園』は客も少なく、いつもより静かである。
 奥の席で麟太郎は敏之と、何やら真剣な顔つきで話しこんでいる。
「その話は初耳だな。矢田さんからは何の連絡もねえしよ」
 コップに残っていたビールを空にして麟太郎はいう。
「きまりが悪かったんだろうよ。つい数日前にも同じことがあったばかりでよ。それに今回は夜じゃなく昼間だったから」
 敏之は自分のコップにビールを注ぎ足して口に含む。
「昼間だと、なんできまりが悪いんだよ。まったくわかんねえよ」
 麟太郎は唇を尖らせる。
「夜と違って昼間は人通りも多いし車の往来も激しい。道行く人に迷惑をかけるかもしれねえし、交通事故の恐れもある。単なる不注意や監督不行届きじゃすまねえだろう」
「そりゃあまあ、そうには違いねえがよ。それにしても、電話一本ぐれえはよ」
 麟太郎はまた唇を尖らせる。
「気持はわかるけど。察してやれよ、麟ちゃん。矢田さんは奥さんの介護でぎりぎりの毎日を送ってるんだ。一日として心の休まる日のない毎日なんだよ。なるべくなら、余計な波風は立てたかねえんだ。そのへんのところをよ」
 ごくりとコップのビールを飲んだ。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)