連載
下町やぶさか診療所
第二章 二人三脚・後 池永 陽 You Ikenaga

「そうだな。ちょっと料簡が狭かったようだな。いくら自分の患者だからといって、何もかも知ろうというのは欲が深すぎる。俺もまだまだ、器が小せえな」
 麟太郎は柄にもなく、少ししょげる。
 敏之が話題にしているのは一昨日の昼の、矢田夫婦に関する事件だった。
 昼の二時過ぎ、矢田の監視の目を逃れたらしく、久子はまた外をふらふら出歩いていたという。
 場所は言問通りあたりで交通量はけっこう多い。久子は脇目もふらず、ふらふらしながらも歩道の右側を急ぎ足で進んでいた。そのうち久子の足がぴたりと止まった。回れ右をするように体を半回転させた。睨みつけるように車道を見た。ふらりと右足を車道に一歩踏み入れた。
 そのとき叫び声とともに、一人の男が久子に飛びついた。二人はその場に転がった。久子に飛びついたのは矢田だった。
「危機一髪だよなあ……矢田さんが久子さんを見つけるのがもう少し遅れたら、あるいはとんでもないことになっていたかもしれん。本当に運がよかったよ。神様はちゃんと見てるんだよなあ」
 何度も首を振る敏之に、
「神様が見ているかどうかは知らねえが、その一部始終を偶然、蕎麦屋の文彦が見ていて、噂が町内に流れたということか」
 腕をくんで麟太郎は答える。
「何でも遠くから久子さんの姿を見て、こいつはいけねえとあとを追っていったら、そういう展開になったそうだ。矢田さんが間に合って本当にほっとしたって、しみじみいってたな」
 敏之は自身もほっとしたような表情を浮べて、ビールをごくりと飲んだ。
「聞いていた俺もほっとしたよ、やっぱりそんな死に方だけはな。できりゃあ天寿を全うしてほしいからよ」
「天寿なあ……ところで麟ちゃん、天寿っていうのはどんなもんだろうな。俺にはよくわからねえんだけどよ」
「そりゃあ、おめえ、俺にもよくわからねえよ。ただ、何といったらいいのか。一時の涙ですむ、死に様だろうな。涙があとを引かねえっていうか」
 いい訳のように麟太郎はいう。
「涙があとを引かねえ死に様なあ……要するに長生きしろってことか」
 独り言のようにいう敏之に、
「おい、敏之。今夜はもう帰ろうか。何だか悪酔いするような気がしてよ」
 麟太郎は溜息まじりにいう。
「そうだな。今夜はこのあたりでお開きにしたほうがいいかもしれねえな」
 すぐに敏之も同意して、どっこいしょといいながら立ちあがると、
「あら、もう帰るんですか!」
 咎(とが)めるような夏希の声が飛んだ。

 外に出た二人は大きく深呼吸した。
 夜風が火照った体に心地いい。
 そのとき、足音が響いてきた。あれは――。
「麟ちゃん!」
 敏之が上ずった声をあげた。
「矢田さんたちかも、しれねえな」
 こちらは逆に低い声だ。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)