連載
下町やぶさか診療所
第二章 二人三脚・後 池永 陽 You Ikenaga

「矢田さんたちなら!」
 へへっと敏之が笑った。
「矢田さんたちなら、何だ?」
 と麟太郎が訊き返したところへ、音の主がやってきた。やはり、矢田と久子だ。
「これは、大先生と水道屋の敏之さん。幼馴染み二人が揃って飲み会ですか。羨しいですねえ」
 という矢田の右手は久子のズボンの後ろをしっかりつかんでいる。久子は先日同様、その場で足踏みをしているが、今日はかなりゆっくりした動きだ。
「羨しがってないで、どうですか矢田さんと久子さんも、ここで一杯」
 びっくりするようなことを敏之が口にした。
「えっ!」
 矢田は一瞬何をいわれたのかわからないような表情を見せ、
「そんな、私たちなんか。なかのお客さんに迷惑をかけるだけですし、それにそんな贅沢はとても」
 顔の前で左手を振った。
「そんな心配はいりませんよ。今日は客も少ないし、もちろん俺たちも同席しますし。それに勘定は、ここに真野麟太郎という大蔵大臣が控えてますから、大船に乗ったつもりで。なあ、麟ちゃん。そうだろ」
「ああ、それはもちろん」
 麟太郎は慌てて声を出す。
「しかし」
 となおも辞退する矢田に、
「久子さんにとっても薬になるかもしれませんよ。日常とは別の場所に身を置けば、心のほうもいい影響を受けるかもしれない」
 敏之がこんなことをいい、なるほどと麟太郎も首を縦に振る。たとえそこが酒場であっても理屈は同じだ。
「そうですよ、矢田さん。たまにはこういうところもいいじゃないですか。久子さんと一緒にほんの少しだけでも」
 思わず誘いの言葉が出ていた。
 矢田の顔が、ほんの少し緩んだ。
「本当にいいんですか」
 掠れた声でいった。
「医者と水道屋がいいっていってるんですから、いいんですよ」
 訳のわからないことを敏之がいう。
「もし、久子さんが暴れたとしても、こっちは男が三人ですから何とでもなりますよ。少しは人生を楽しみましょう」
 麟太郎はこのとき、矢田に束の間でもいいので人並の幸せを感じてほしかった。楽しんでほしかった。
「それなら、ほんの少しだけ、お二人に甘えさせていただきます」
 照れたような顔で矢田がいった。
「きまり」
 敏之が吼(ほ)えるようにいって、また店に戻ることになった。抵抗するかと思った久子も麟太郎たちに素直に従って、おとなしく店のなかに入った。
「あらら、お帰りなさいまし」
 戻ってきた麟太郎たちを見て、夏希が素頓狂な声をあげて迎えた。
 四人は奥の席に座り、すぐにビールが運ばれてきて四つのコップに注がれる。まず乾杯だ。だが久子だけはきょとんとした表情で、コップを手にしようともしない。
「そっとしておいたほうが。へたに口を挟むと興奮するかもしれません」
 矢田の言葉に三人は小さな声で乾杯と口にしてビールを飲んだ。
「うんまいなあ」
 感嘆の声を矢田があげた。
「ビールなんて、本当に久しぶりです。世の中にこんなうまい物があるってことを、すっかり忘れていました」
 弾んだ声でいった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)