連載
下町やぶさか診療所
第二章 二人三脚・後 池永 陽 You Ikenaga

 すかさず夏希がやってきて、テーブルの上に煮物を山盛りにした鉢を置いた。
「大根の煮つけです。おいしいはずですからどうぞ」
 夏希は小皿に大根を取り、箸をそえて久子の前に差し出す。
「さあ、奥さんもどうぞ。おいしいですよ」
 優しく声をかけた。
 八つの目が久子を注視した。いったいどんな態度をとるのか。
 久子の手がゆっくりと伸びて箸をつまんだ。大根に突き刺した。そのまま口に運んでかぶりついた。咀嚼をしている。ごくりと喉の奥に飲みこんだ。不器用な手つきだったが、久子は大根を食べた。
 思わず周囲から拍手がおこった。
 久子が二つめの大根に箸を突きたてた。
 これもゆっくりと口に運ぶ。
「久子……」
 矢田の口から言葉がもれた。湿った声だった。皺だらけの顔が笑いでいっぱいになった。
「久子がちゃんと大根を食べてくれました。ちゃんと。いつもは手づかみなのに、ちゃんと箸を使って」
 矢田の両目は潤んでいた。
 洟(はな)をすすった。
 いかにも嬉しそうだった。
「よかったね、矢田さん。本当によかったね、矢田さん」
 夏希の両手がさっと伸びて、矢田の両手を握りこんで揺すった。何度も揺すった。そのとき久子の顔に変化がおきたのを麟太郎は見た。あれは……。
 困惑の表情だ。
 久子は平常に戻った。そう思った。しかし、その表情は一瞬で消えさり、その下から鬼の表情が飛び出した。これは嫉妬だ。感情を剥き出しにした極限の顔だ。
 そう思った瞬間、久子の両手が動いてテーブルの上の物を払い落した。床の上でガラスが割れて砕けちった。
 辺りを見まわした久子は表に飛び出していった。
「すみません」
 立ちあがった矢田が泣き出しそうな声でいい、ぺこりと頭を下げてから、久子を追って表に飛び出していった。
「私、悪いことを……」
 低い声で夏希がいった。
「ママは悪気があってしたわけじゃねえから、そこんところは」
 取りなすように敏之が声を出す。
「大先生、あれって嫉妬なの。認知症の久子さんに、まだあんな思いが残っていたの」
 すがるような目を麟太郎に向けた。
「ママのいう通り、あれは嫉妬だな。矢田さんと久子さんは、たった二人だけで苦しさに耐えながらお互いの傷口を舐め合うようにして生きてきた、相思相愛の間柄だから」
 硬い声で麟太郎はいい、
「ママが矢田さんの手を握ったとき、久子さんの脳に変化がおきて、ほんの一瞬だけだったけど平常に戻ったんだ。だけどそれはすぐに鬼の心に変化した。極端な言動は認知症の顕著な症状ともいえるから、あれはあれで仕方がねえんだろうな」
 麟太郎は何度も頭を振った。
「でも、あの二人。少し羨しいような気がする。いえ、違うわ……少しじゃない、かなり羨しい。こんな乾いた世の中で、あんな心を持ちつづけるなんて」
 夏希は独り言のように呟いた。
 本当に羨しそうだった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)