連載
下町やぶさか診療所
第二章 二人三脚・後 池永 陽 You Ikenaga


 診療を終え、居間でくつろいでいる麟太郎のケータイに、久子を担当するNPO法人の女性介護士から電話が入った。
「真野先生、すぐに矢田さんのお宅にきてくれませんか」
 切羽つまった声に聞こえた。
「どうしました、何かありましたか」
 訊き返す麟太郎に、
「何でもいいので、すぐにきてください」
 ヒステリックな声が響いて電話は切れた。
「どうかしたのか、じいさん」
 夕食用に何やら料理らしきものをつくっていた麻世が、台所から怪訝そうな声を出した。
「久子さんの担当介護士からすぐにきてくれという電話が入ったんだが、理由をいわぬうちに電話は切れてしまった」
 ありのままにいうと、
「あっ」
 といって麻世は体を竦(すく)めた。
「何だ、どうしたんだ、妙な声を出して」
 麟太郎が咎めるような声を出すと、
「何でもない。ごめん……」
 驚いたことに、麻世はすぐに謝りの言葉を口にした。
「まあ、とにかく。行ってくるから晩めしの仕度はちゃんとしとけよ。根性を出さなくても食えるもんをよ」
 麟太郎のこんな言葉にも、麻世は素直な態度でこくっとうなずいた。
 十五分後、麟太郎は矢田時計店の奥座敷で呆然とした面持ちで突っ立っていた。
 座敷には清潔な布団が敷かれ、その上に二人は横たわっていた。どこで手に入れたのか、枕元には空になった睡眠薬の瓶が置かれていた。
 麻世はこれを予測していたのだ。
「先生がくるまではと思って、どこにも手は触れていません」
 硬い口調で介護士はいった。
「そうか」
 低い声でいって麟太郎はひざまずき、まず二人の脈を診てから、体の状況を調べる。
「救急車を呼んだほうがいいですか」
 介護士の言葉に、
「いや、すでに死後硬直が始まっているから、死後三時間以上はたっているはずだ。救急車は必要ない」
 重い声を麟太郎は出した。
「すると、警察のほうですか」
「そうだな」
 短く答えてから、
「遺書のようなものは、なかったのかな」
 ぽつりといった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)