連載
下町やぶさか診療所
第二章 二人三脚・後 池永 陽 You Ikenaga

「私の見たところ、そういうものは一切ないようです」
「そうか、そういうものはなしか」
 独り言のようにいう麟太郎に、
「ひとつ、腑に落ちないところがあるんですが、訊いてもいいですか」
 介護士が不審な表情を見せていった。
「いいよ、何を訊いても」
 麟太郎の肯定の言葉に、
「久子さんは認知症を患っていたはずなんですけど、そんな人が大量の睡眠薬をおとなしく飲むものなんでしょうか」
 率直な疑問点を口にした。
「これは無理心中ではなく、合意の上での心中だよ」
「合意の上って――久子さんは確かに認知症のはずで、そんな人が合意の上の心中なんて、ちょっと考えられません」
「そう。確かに久子さんは認知症だった。しかし久子さんの場合、ごく短い時間ではあったけど平常に戻ることがあったんだよ。そのごく短い時間に矢田さんは久子さんを心中に誘い、久子さんはそれを承諾して事におよんだ。不思議な話ではあるけど、私はそう思ってるよ」
 淡々と麟太郎は言葉を出した。
「短い時間って、いったいどれほどの時間なんでしょうか」
「私が認識している久子さんの平常に戻る時間はほんの一瞬だったけど――この場合、奇跡的に五分間ほどはつづいたのかもしれないなあ」
「五分間ですか」
 介護士は驚いた表情を浮べ、
「たった五分間で、矢田さんは久子さんを説得し、さらに事におよんだということですか。たった五分間ほどで」
 悲鳴に近い声を出した。
「二人は――」
 麟太郎は絶句してから、
「矢田さんと久子さんは、相思相愛だったんだよ。だからね、五分もあれば心が通じて、どんなことでも可能だったはずなんだ。たとえそれが、死ぬことでもね」
 いったとたん、視界がぼやけた。
 麟太郎は大粒の涙を畳の上にこぼした。
 二人はおそろいのベストを着ていた。金婚式のときに買った、ハートのペアルックだった。
 そして二人は互いの右手と左手を紐でしっかり結んでいた。何がどうなろうと決して離れ離れにならないように……。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
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第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)