連載
下町やぶさか診療所
第二章 二人三脚・後 池永 陽 You Ikenaga


 次の日の夕方――。
 診察を終えた麟太郎が自宅のほうに戻ると、食卓の上に手紙が一通置いてあった。裏を返すと、矢田と久子の名前が目に飛びこんできた。
「郵便ポストに入ってたから、そこに置いておいた」
 台所から麻世の声がした。
「そうか、それはすまなかったな」
 麟太郎は一分間ほど手紙を睨みつけてから、ゆっくりと封を切った。
『大変お世話になりましたのに、申し訳ありません』
 手紙はこんな書出しで始まっていた。
『大先生だけには伝えておかなければいけないことがあります。ですからこうして手紙をしたためてみました。
 もう、お聞きおよびとは思いますが、久子が家を抜け出し、道路に飛び出そうとしたところを私が抱きとめたことがありましたが、あれは私の犯罪でした。
 久子は隙を見て家を抜け出したのではなく、家の戸を開け放して外に出ていくように私がしむけたのです。
 あのころの私は久子の介護に疲れきっていました。こいつさえいなくなれば……そんな鬼のような気持が、そのとき私の心に芽ばえたのです。どうせ久子は認知症で思考能力などない身、それならいっそ……少しだけ弁解させてもらえば、そのほうがお互いの幸せだとも思いました。私は久子がふらふらと車道に飛び出して、車にひき殺されることに賭けてみたのです。
 私はあのとき、久子のすぐ近くにいました。そして久子が車道に足を踏み出したとき、はっきり見たのです。久子の目を。久子の目には力がありました。あれは思考能力を備えた目でした。つまり久子は自殺をするつもりで、自分の意思で、車道に踏み出したのです。そんな人間を殺すわけにはいきません。私は慌てて久子にしがみつきました。
 また、あの『田園』での出来事。あのときも久子は、ほんの少しでしたが元に戻った状態でした。そして私はあのとき、久子が今でも私を愛してくれていることを知りました。そうなったらもう、久子一人で死なすわけにはいきません。死ぬなら一緒。それも久子の了解をとってです。
 幸い一日に何度か、ほんの数分間ではありますが久子が元に戻ることがあるのに気がつきました。そのときに賭けてみようと私は思いました。
 大先生がおっしゃっていた『最良の方法』、私はそれをようやく見つけたのです。二人で仲よく一緒に死ねるなら……こんな最良の方法は他にはありません。
 この手紙をポストに入れ、そのあと実行にうつすつもりでいますが、久子を説得する時間がどれほどあるのかは、まったくわかりません。あとは運頼みです。
 では二人で行って参ります。
 大先生はいつまでもお元気で。
 本当に有難うございました。』
 麟太郎の指から手紙が落ちた。
 また涙が出てきた。
「だが、死んではいかん、死んでは……」
 肩を震わせて麟太郎は声を出した。
「どうした、じいさん」
 麻世の心配そうな声がすぐそばで響いた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)