連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・前 池永 陽 You Ikenaga

「よしっ、異常なし」
 麟太郎は、ぽんと男の子の頭を叩いて大きくうなずいた。
 男の子の表情にほっとしたようなものが浮ぶ。名前は高原良太、小学三年生と受診票には載っていた。
「あの、本当に大丈夫でしょうか」
 傍(かたわ)らから声が聞こえた。
 良太の母親の直実だ。年恰好は三十代の半ばといったところか。
「単なる打撲傷で、骨のほうには何の異常も見当たらない。痣(あざ)のほうも、ほんの数日で消えるはずです」
 麟太郎は抑揚のない声でいってから、
「ところで高原さん。学校のほうには、ちゃんと連絡したんですよね」
 直実の顔をじろりと見た。
「それはもう。さっきも話しましたように、転んだ拍子に椅子で顔を打ったので、今日は学校は休ませてもらいますと」
 視線を下に落して直実はいった。
「なるほど、そういうことでしたね」
 麟太郎は、ぼそりといい宙を睨んだ。
 キッチンであやまって転び、置いてあった木製の椅子の肘掛けで顔面を強打──今朝の出来事だと直実はいった。強打した左頬上部の色が変ってきたのは、それから数時間後。しばらく様子を見ていたが心配になって、ここに連れてきたのだと。
 が、良太の皮下出血は転んだためにできたものではない。
 斑紋は頬骨を中心にして、放射状に頬全体の広範囲におよび、とても椅子の肘掛け部によってできたものとは思えない。簡単にいえば、殴打の痕。つまり、良太は誰かに殴られて傷を負った。そういうことになるが、その誰かが何者であるかはわからない。
「しかし、お母さん。私が診(み)たところ、良太君の傷は──」
 といったところで、
「転んだんだ、僕が」
 ふいに、それまでうつむいていた良太が叫んだ。
 視線を良太に向けると、泣き出しそうな顔をして麟太郎を睨みつけている。
「転んだのか、良太は……」
 嗄(しわが)れた声で麟太郎がいうと、
「そうだよ。はしゃいでいて滑って転んだんだ。そして、椅子で打ったんだよ」
 また、叫ぶように良太はいった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)