連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・前 池永 陽 You Ikenaga

「そうか、そういうことだな。良太は転んで椅子で顔を打ったんだ」
 優しい声で麟太郎はいってから直実の顔をじろりと睨み、
「受診票の世帯主の欄にはお母さんの名前が記載されていますが、失礼ですが良太君のお父さんは」
 立ち入ったことを口にした。
「三年前に別れて……それで今は私と良太の二人きりですので」
 細い声で直実はいった。
「そうですか、失礼しました。じゃあ、湿布薬を出しておきますから」
 麟太郎はそういってから、
「八重さん、よろしくな」
 どういう加減か看護師の八重子に声をかけた。
「あっ、はい」
 と八重子が返事をし、直実がそちらのほうに体を向けたとき、麟太郎は良太の耳許(みみもと)に口をよせて何やら囁いた。直実は薬の説明を八重子から聞いていて気づかない。そのあと二人は診察室を出ていった。
「びっくりしましたよ、大先生。突然、私のほうに振ってくるんですから。一瞬、何を、あのお母さんに話したらいいのか、とまどってしまいましたよ」
 睨むような目つきで八重子がいった。
「すまねえな、あのお母さんに、良太へ耳打ちするのを見られたくなかったからよ」
「そういうことなんでしょうけど、でも、前振りぐらいはしてくれませんと──で、いったいあの子に何を話したんですか」
「簡単なことさ。明日でも明後日でもいいから学校の帰り、もう一度ここにおいでってな。ただ、それだけのことだよ」
 にまっと笑って麟太郎はいう。
「また、お節介ですか──そんなことをしているより、さっさと児童相談所に連絡を入れたほうがいいんじゃないですか。あんなもの、誰が診たって殴った痕としか考えられませんよ」
 呆れ顔の八重子に、
「できねえよ、それは。あれだけ当事者の良太から否定されたらよ。それに、良太は転んだと訴えながら、泣き出しそうな顔をしてたじゃねえか」
 噛(か)んで含めるように麟太郎はいう。
「そりゃ、まあ──で、殴ったのは、あのお母さんでしょうか。それで良太君はお母さんをかばって」
「まあ、そう考えるのが妥当だが。あるいは、お母さんのコレというのも充分に考えられるからよ」
 親指をぴんと立てた。
「そうですね。その線も充分に考えられますよね」
「まあ、いずれにしても、この件は麻世だけには感づかれないように処理しねえとな。麻世の境遇によく似てるから、なるべくあいつにわからねえようにな」
 声をひそめて麟太郎はいう。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)