連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・前 池永 陽 You Ikenaga

「わかると、どうなるって大先生はいうんですか」
「あいつのことだから、手をあげた当人に殴りこみをかけるかもしれん」
「そんなことは、ないでしょう。いくらヤンキーの麻世ちゃんでも」
 首を振る八重子に、
「あんたは、麻世のことをよく知らねえから、そんなことを」
 と麟太郎は胸のなかだけで呟く。
「大先生が心配してるのは、麻世ちゃんが近頃待合室によく顔を見せて、黙って座りこんで待っている人の世間話に耳を傾けていることがあるからですか」
 八重子の言葉に麟太郎は首を縦に振る。
 麻世が待合室に姿を見せるようになったのは十日ほど前からだ。
 学校から帰ってまだ診療が終っていないとき、麻世は待合室の奥の椅子に腰をおろして、じっとしていることがある。何をするでもなく、ただ黙って待合室に飛びかう人の話に耳を傾けているように見える。むろん、口を挟むことはない。ひたすら、じっと座っているだけだ。
「待合室で、麻世はいったい何をしてるんだ」
 と訊いたのは一昨日の夕食のときだ。そのとき麻世は、
「みんなの話を、聞いているだけだよ」
 低い声でいった。
「みんなの話を聞いていると、面白いか」
 怪訝な面持ちを麻世に向けると、
「面白いよ、そして悲しいよ」
 麻世は無表情でいった。
 何だかわからなかったが、このとき麟太郎は嬉しさのようなものがこみあげてくるのを覚えた。
「そうか、面白くて悲しいか。それはいい、実にいい。とにかく頑張れ」
 とだけ、麟太郎は麻世にいった。
 麻世はこの診療所を通して、人のあれこれに興味を抱き出した──そういうことだと麟太郎は推測している。それはそれで、大いにいいことなのだが、今日の良太の件は困る。何といっても麻世の境遇に酷似している。関わらせないほうが無難といえた。
「もう、遅いですよ、大先生」
 八重子の言葉に麟太郎は我に返る。
「遅いって、何が遅いんだ」
 怪訝な目を向ける。
「今日は麻世ちゃん、すでに帰ってきていて待合室にずっと座ってましたよ」
 何でもないことのようにいった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)