連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・前 池永 陽 You Ikenaga

「座ってたって──それはお前さん、麻世はもう、あの親子と対面しているということなのか」
 慌てていうと、
「多分、見ていると思いますけど。でも心配ないんじゃないですか。素人がちらっと顔の痣を見たぐらいで、気がつくことなど何もないと思いますよ。心配のしすぎですよ、大先生。そういうのを杞憂っていうんですよ、知ってますか」
 八重子は胸を張っていい、偉そうに顔を綻(ほころ)ばせた。
「そりゃあ、まあ、そうかもしれねえけどよ。で、まだいるのか、待合室に麻世は」
 麟太郎の言葉に、診察室の扉を開けて八重子は待合室を窺い見る。
「いますよ、奥のほうに。両手を膝に置いて目を閉じているようですよ」
「そうか、いるのか、あいつ」
 舌打ちしながら、
「あと、患者は何人待ってるんだ」
 と麟太郎は声を張りあげる。
「あと、五人ですね――若い女性はいませんけど、次の人を呼んでもいいですか」
「いいけどよ」
 という麟太郎の言葉にかぶせるように、
「良太君、くるといいですね」
 弾んだ声で八重子はいった。

 麟太郎は居間兼食堂で夕刊に目を通している。麻世はむろん、キッチンで夕食づくりに大奮闘だ。近頃、少しは料理に慣れてはきたようだが。
「今夜の献立は何だ、麻世」
 大声でキッチンに声をかけると、
「餃子と炒飯――」
 すぐに答えが返ってきた。
「それはひょっとして、食べられるものなのかな」
 機嫌のいい声を麟太郎は出す。
「餃子は冷凍食品だし、炒飯は具を入れて炒めるだけだし。まあ、どう考えても失敗のしようがないな。じいさんには、残念だろうけどよ」
 自信満々に麻世はいう。
「そうか、そりゃあ、本当に残念だ。俺はけっこう、エサもどきの料理が嫌いじゃなかったんだけどよ」
 本当に残念そうに麟太郎はいう。
「私にもやっぱり、プライドってもんがあるからな。そうそう、じいさんの思い通りにはさせないよ」
 何と麻世は鼻歌を唄い出した。
 それも、麟太郎お得意の『唐獅子牡丹』である。いったい誰から、そんな情報を仕入れてきたものなのか。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)