連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・前 池永 陽 You Ikenaga

 三十分後――。
 麻世が食卓に料理を運んできた。
 仏頂面だ。
「失敗した……」
 ぼそっといった。
 食卓に並べられた料理を見ると、餃子は互いにくっつきあって形が崩れ、炒飯は油が多すぎたのかベタベタの状態だった。
「できるだけ、食え」
 顔を見ないでいう麻世に「ほっほっほっ」と、麟太郎は嬉しそうに奇声をあげる。
「これはまた、どこからどう見ても、うまそうな餃子と炒飯じゃねえか、麻世」
「そうだろ。ここまで崩すのは、これはもう、一種の才能のようなもんだ。じいさんの好みに合せるのも楽じゃない」
 ニコリともしないで箸を取り、さっさと餃子を口に運び出した。負けじと麟太郎もスプーンを取って炒飯を口に放りこむ。何のことはない。二人で我慢くらべをしているようなものだ。
 食事が終り、お茶をすすりながら麟太郎が真面目な声を出した。
「どうだ、麻世。今日も待合室に座っていたようだったが、何か収穫らしきものはあったのか」
「収穫って、そんな難しいことは私にはわからないよ。私はただ、黙ってみんなの話を聞いてるだけだから」
 困ったような調子で麻世はいう。
「そうか、ないならないで、それでいい。人の話に耳を傾けるというだけでも感心なことだ。正直俺は嬉しく思ってる」
 ほっとしたようにいうと、
「人の話には関係ないけど、その代りに嫌なものを見た」
 低い声を麻世は出した。
 ざわっと麟太郎の胸が騒いだ。
「母親に連れられてきた子供の顔に、殴られた痕があった」
 やはり、麻世は見ていたのだ。
「殴られた痕って……母親は椅子の肘掛けにぶつけたといっていたが」
「そんなはずないよ。あれは殴られた痕だよ。何十回と殴り合いの修羅場をくぐってきた私がいうんだから、間違いないよ。あれは母親の虐待だよ、かわいそうすぎるよ、あんなに小さいのに」
 見るべきところは、ちゃんと見ているのだ、こいつは。麟太郎は胸のなかで、ひそかに唸(うな)り声をあげる。
「麻世がそういうのなら、そうなんだろう。で、麻世はそれを見て、どう思った。母親を殴ってやろうとでも思ったのか」
 柔らかな声で訊いた。
「思ったよ、できるならだけど。でも、そんなこと、できるはずないから」
 低すぎるほどの声が返ってきた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)