連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・前 池永 陽 You Ikenaga

「できるはずがないとわかって、麻世はどう考えたんだ」
「悲しかった。ひたすら悲しかった。泣いてやるぐらいしか、私には方法がなかった」
「泣いたのか、麻世は」
 驚いた声をあげる麟太郎に、
「泣いたよ。でも私は人前で涙を流すのは嫌いだから……涙を流さずに泣いたよ、歯を食いしばって」
 麻世が両の拳を、しっかりと握りしめるのがわかった。
 このとき麟太郎は、麻世にすべてを話してみようと思った。診察室での、あの母子とのやりとりをすべて。
 麟太郎は事の詳細を麻世に向かって、ゆっくりと話し出した。
「あの子供――良太っていう男の子が、またくるのか、ここへ」
 話を聞き終えた麻世は、身を乗り出してきた。やはりこいつは、良太の事件を自分の境遇に重ねている。麟太郎はそう感じた。
「くるかこないかは、わからねえ。ただ俺はくるように願っている。きてほしいと思っている」
 強い口調で麟太郎はいった。
「きたら、じいさんはどうするつもりなんだ。何をするつもりなんだ」
「話を聞く。俺は事実が知りてえ。あの、良太って子供の身におこっている、すべてを知りてえ」
「すべてを知ってから、どう動くんだ、じいさんは」
 麻世の光る目が麟太郎を見ていた。
「わからねえ。それは、すべてを知ってからでねえと、わからねえ。ただひとついえるのは、あの子供のために俺は動く。そこでだ、麻世――」
 麟太郎が麻世の目を見返す。
「もし、あの子供が診療所に姿を見せたら、お前も同席するか」
 思いきったことを麟太郎は口にした。
「いいのか」
 麻世が叫び声をあげた。
「妙な考え方だが、麻世には同席する権利があるようにも思える。だからな……」
「権利か――じゃあ、私はその言葉に乗っかって同席する」
「といっても、正直なところ、あの良太がくるかどうか。それに、くるにしたって、いつなのかはわからねえ。だから、もし良太がきたときに麻世が待合室にいれば、診察室に呼んでやる。そういうことにしよう」
「わかった」
 大きく麻世がうなずいた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)