連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・前 池永 陽 You Ikenaga

「やっぱり、そうきましたか。いつもの大先生の手ですね。はいはい、わかりました。じゃあ、二人を呼んできますから」
 にやっと笑って八重子は診察室を出ていった。長いつきあいである。麟太郎の気持は八重子も知りつくしている。
 診察室に麻世と良太が入ってきた。
 なんと二人は手をつないでいる。
 いったい麻世は、どんな手を使って良太を手なずけたのか。ううんと唸って麟太郎は良太を自分の前の椅子に座らせる。麻世は傍らの椅子を持ってきて、良太の横にそっと座りこむ。
「このお姉ちゃんと、良太は何か話をしたのかな」
 念のためとも思い、麟太郎はまずこんな言葉をかけた。
「学校の話をちょっと。勉強は何が好きっていわれたから図画だっていったら、お姉ちゃんも図画が好きだっていうから。それで絵の話をした」
 良太はつかえながらも、一生懸命に麟太郎に答える。
「そうか、絵の話か。そりゃあ、よかった」
 ほっとした思いで。
「このお姉ちゃん、怖くなかったか。大丈夫だったか、良太は」
 訊かなくてもいいことを、わざわざ麟太郎は訊いた。
「えっ、このお姉ちゃん。とっても優しいよ。怖いことなんか、ひとつもないよ」
 きょとんとした表情で麻世を見た。つられて麟太郎も麻世を見る。仏頂面が消えさって笑みを浮べた麻世がいた。驚いた。文句なしに可愛い顔だった。今までに見たこともない、極上の麻世の顔だった。
 こんな顔で笑いかけられたら、男はみんな駄目になる。たとえ小学三年生の小さな子だとしても……自分好みの顔でなくてよかったと、麟太郎はつくづく思う。そのとき麻世が一瞬だったが、いつもの仏頂面でじろりと麟太郎を睨んだ。
 こほんと麟太郎は空咳をひとつして、
「ところで良太は、どうしてここにくる気になったんだ」
 できる限り優しい声で良太に訊いた。
「おじさんもお姉ちゃんと一緒で優しそうに見えたから。だから、お母さんの味方になってくれると思ったから。怖いおじさんをやっつけてくれると思ったから」
 母親の味方になってくれるからと、良太はいった。やっぱり何か事情がありそうだ。それもどうやら男がらみの。
「俺も、このお姉ちゃんも、いつも良太とお母さんの味方だから心配することはないぞ。だから、良太も正直にいろんなことをおじさんたちに話してくれると嬉しいな」
 麟太郎が笑みを浮べていうと、
「いいよ」
 と良太は、こくっとうなずいた。



       8  10 次へ
 
〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number
第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)