連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・前 池永 陽 You Ikenaga

「まずは、この間の良太の怪我についてだが。あれはいったい、誰にやられて痣になってしまったのかな。本当は椅子の肘掛けにぶつけたんじゃないだろ」
 良太の顔が一瞬にして崩れた。
 両目が濡れたように潤んできた。
 大粒の涙が床にこぼれ落ちた。
「良太君……」
 麻世が優しい声をかけた。
「男の子は、どんなときでも泣いちゃ、駄目。泣いてたら、良太君の大好きなお母さんを助けることもできないぞ」
 良太の肩に、そっと手を置いて、
「だから、訊かれたことをお姉ちゃんと、この変なじいさんに話してみようよ。それが、良太君とお母さんを助けることになるんだからね」
 諭(さと)すようにいった。
 こくっと良太がうなずいた。

 その夜。
 冷奴と、スーパーの惣菜売場で買ってきたメンチカツの夕食をすませたあと、麟太郎と麻世は、食卓を挟んで今日の良太の一件を話しあった。
 診察室の良太の言葉を要約すると――。
 あの朝、顔を殴ったのは市原という三十がらみの男だと良太はいった。
 市原は週に何度か良太の住んでいるアパートに泊りにきて、そのたびに良太を面白半分に殴るともいった。最初のころは直実も止めに入ったが、それも聞きいれてもらえず、近頃はその様子を黙って見ているだけで何もいわなくなったという。
「面白半分って、何の理由もなしに、その市原って男は良太君を殴るの?」
 と麻世が質(ただ)すと、
「よくわからないけど、僕が邪魔みたい。僕のいるアパートは部屋がひとつしかなくて、それでだと思うけど」
 良太はこういって、大粒の涙をまたこぼした。
 そういうことなのだ。二人――特に市原にとって男と女の営みをするうえに、子供の良太は邪魔以外の何物でもないのだ。そして、そのための暴力が習慣になって、理由もなく良太に手をあげるようになった。
「お母さんも良太君を殴るの?」
 そう麻世が口にすると、良太は何もいわずに膝の上の拳を握りしめただけだった。
「お母さんは、ひょっとしてその市原という男から金でも借りてるんだろうか」
 ぼそりと麟太郎がいうと、
「僕にはよくわからないけど、そうかもしれない」
 細い声で良太は答えた。
 そしてまた、大粒の涙をこぼした。
 診察室での良太とのやりとりのあらましは、こんな具合だった。やりとりは四十分ほどもつづいた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)