連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・後 池永 陽 You Ikenaga

 麟太郎は当てていた聴診器を、肋骨(ろっこつ)の浮いた右胸からゆっくり外して笑みを浮べる。
「音も綺麗になってきてますし、あと数日もすれば風邪っ気もすっかり抜けて楽になると思うよ、徳三さん」
 優しい声でいった。
「へい、ありがとうございやす。なかなか夏風邪っていう野郎は年寄りには辛いもんでして、大先生にそうやって太鼓判を押してもらえると、ほっとしやす」
 ぺこりと頭を下げた。今年七十四歳になる徳三は江戸風鈴の職人で、まだ現役の身だった。
「お互い、もう年ですから体だけは大切にしないとねえ」
 真面目な口調で麟太郎がいうと、
「年ったって大先生はまだ、六十ちょっとじゃねえですか。俺っちに較べたら、まだまだでござんしょう。今年の三社祭(さんじゃまつり)では神輿のほうも、どんと担いで……」
 丁寧な口調でいって、探るような視線を向けた。
「何をいってるんですか、徳三さん。そんなもん担げるわけがないでしょうが。もう何年も前に引退して、今は指をくわえて見ているだけですよ」
 悔しそうに麟太郎はいう。
「おや、まっ」
 徳三の口から、ほっとした声があがって顔が綻(ほころ)んだ。そのとたん、急に徳三は咳きこんだ。風邪の名残だ。
「この咳、何とかならねえもんですかね。どうにも鬱陶しくていけねえ」
 情けない顔でいった。
「じゃあ、咳によく効く漢方薬でも出しておきましょうかね。副作用も、ほとんどないですから。苦いけどね」
 嬉しそうに麟太郎はいい、
「ただ、普通の薬と違って漢方の場合、飲むのは大体食前ですから、そこんところを間違えないようにね」
 大きくうなずいてみせると、徳三のほうは小さくうなずいた。
「だけどよ、大先生。風鈴屋なんてのは、火の前の作業がほとんどなんだけど、なんで風邪なんかひくのかね。そこんところが、どうにもよく、わからねえんだがね」
 徳三の言葉に麟太郎は思わず身を乗り出す。
「理由は簡単――」
 顔が笑っている。
「年を取ったと、いうことさ」
 はっきりした口調でいった。
「年ってか……そういわれちまうと、返す言葉は何にもねえんだが。そうか、年か。まあ、これもお互い様の話だよな」
 ぶすっとした顔をして徳三はいってから、
「でもよ、俺っちが大先生の年ぐれえのときは、まだ神輿を担いでたはずだけどよ」
 勝ち誇ったような声をあげた。



1         10 11 12 13 次へ
 
〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)