連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・後 池永 陽 You Ikenaga

 どうやら徳三はまだここで油を売っていくつもりらしいが、実をいうと麟太郎は今日は話を早く切りあげたかった。
 待合室に良太が久しぶりにきていた。相手をしているのは麻世だ。麟太郎はその話の輪のなかに早く加わりたかった。徳三は今日最後の患者だった。
「徳三さん、話のつづきはまた今度ということで――実はこれから早急にやらなきゃならないことがありまして」
 嗄(しわが)れた声でいった。
「早急になあ……なら、今日は俺の勝ちということで」
 ゆっくりと徳三は立ちあがり、
「じゃあ、またな、やぶさか先生」
 手をひらひらさせて診察室を出ていった。
「あの野郎、本人を前にして、やぶさかなどと――」
 独り言のように口のなかでいってから、傍(かたわ)らに目をやると八重子が嬉しそうな顔で笑っている。
「相変らず、徳三さんも大先生も負けず嫌いですね」
「そりゃあ、八重さん……」
 麟太郎は一瞬言葉をつまらせ、
「あの野郎も俺も、下町生まれの下町育ちだからよ。男として譲れねえ部分は、やっぱり死守しねえとよ」
 カルテにペンを走らせながら、ぶっきらぼうにいった。
「死守ですか――男って、つまらない部分で見栄を張るから大変ですね。もっとも、女にしたって男とは違った部分で大変なんですけどね、大事な部分ですけどね」
 八重子が溜息をついたところで、
「徳三さんはいい人なんだけど、口がからきし悪いからなあ。ついつい、こっちもつられて……とにかく俺は、待合のほうに行ってるから、あとは頼むよ」
 ペンを置いた麟太郎は白衣をイスの上に脱ぎすて、診察室から待合室のほうへ向かう。
 奥に座っている麻世と良太の隣へ腰をおろし、
「久しぶりだな、良太。元気だったか。変りはないか」
 いったとたん、麻世が妙に押し殺した声をあげた。
「変りは大ありだよ。良太君の右目の下を見てみなよ」
 麻世にいわれるまでもなく、良太の右目の下にうっすらと痣(あざ)があるのは近くにいってすぐにわかった。
「まだ、虐待がつづいているようだな」
 ぽつりと麟太郎が声を出したところで、
「何でえ、どんな大事な用かと思ったら、子供とのお喋りかい」
 受付の前で処方箋が出るのを待っていた徳三が、にまっと笑って大声をあげた。
「子供は国の宝であり、老兵はただ消えさるのみ。そこんところの順逆を間違えると、えらいことになりますから、徳三さん」
 負けじと麟太郎も大声をあげる。
「そりゃあ、まあ、そうには違いねえけど、しかしよ」
 何をいおうか考えている徳三から視線を移し、麟太郎は腕時計に目をやる。六時ちょっと前。『田園』が喫茶店からスナックに変るのは七時からなので、まだ良太を連れていっても大丈夫だ。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)