連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・後 池永 陽 You Ikenaga

「麻世に良太、ちょっと外に出ようか。そのほうが落ちついて話ができる」
 二人をうながして麟太郎は立ちあがる。
 受付の前を抜けようとすると、
「敵前逃亡は軍法会議もんだぜ、大先生」
 徳三から声がかかる。
「君子は危うきに近寄らず、三十六計逃げるに如(し)かずという諺もありますからね」
 そういって麟太郎は徳三の前を抜ける。
「逃げるに如かずということは、今回はやっぱり俺っちの勝ちということだな」
 徳三は顔中を笑いにして、機嫌のいい声を出し、
「今度飲みに行こう。奢らせてもらうからよ、安酒場だけどよ、やぶさか先生」
 ひらひらと手を振った。
 根はいい年寄りなのだ。もっとも、やぶさか先生だけは余計だったが。
「ええ、ぜひ」
 麟太郎も笑顔でいって診療所の外に出る。
「どこへ行くんだ、じいさん」
 麻世の問いに、
「そこさ」
 麟太郎は隣の『田園』に向かって顎をしゃくる。以前、麻世を一度店に連れてこいと夏希ママはいっていた。顔も見たいし、じっくり話もしたいからと――良太が一緒だが、今日麻世を連れていけば、いちおうの義理は果たせたといえる。さて二人が会って、どんな情況になるのか。これも楽しみだった。

 店のなかに入ると、幸いなことに客は誰もいない。
「いらっしゃい、大先生。今日はまた中途半端な時間に……」
 カウンターのなかにいた夏希の声が一瞬途切れた。麟太郎の後ろの麻世の姿に気がついたのだ。そして良太の姿も。
「まあ、可愛い娘さんと小さなお子さんも一緒ですか、賑やかですね」
「一人は前にもいったけど麻世という名で、親類筋からの預かり物の高校二年。もう一人は良太といって、俺の大切な患者で話し相手だよ」
 いいながら麟太郎は奥の席に麻世と良太を誘いいれる。
 すぐに夏希が冷たい水の入ったコップをトレイにのせてやってくる。
「お酒にしますか、それとも」
 真直ぐ麟太郎の顔を見て夏希は訊く。まだ麻世の顔に視線は合せない。
「小学生の前で酒は飲めねえから、俺はコーヒー。麻世も一緒でいいか」
 こくっとうなずく麻世の返事を確かめてから、
「良太はオレンジジュースでいいか」
 良太もこくっと首を前に倒す。
「それから何か食い物をな。夕食代りになるような」
「焼きそばとか、オムライスとか……」
 夏希の言葉に、
「オムライスがいいな。どうだ、二人とも」
 麟太郎が麻世と良太の顔を見ると、二人は同時にうなずく。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)