連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・後 池永 陽 You Ikenaga

「じゃあ、オムライス、三つですね。先に飲物を持ってくればいいですか」
「そうしてくれ」
 という麟太郎の言葉に夏希は背中を見せる。一度も麻世の顔は見なかった。
 すぐに飲物がウェイトレスの手で運ばれてくる。夏希はカウンターのなかで、オムライスづくりだ。
「良太。俺と麻世はお前とお母さんの味方だ。それは、わかるな」
 ストローから口を離して良太がうなずく。
「だったら、起きたことを正直に話してくれるか。その目の下の痣は、いったい誰にやられたんだ」
 麟太郎は良太の顔を真直ぐ見た。
 四日前のことだと良太はいった。
 夜の八時半頃に市原がアパートにやってきた。直実はその日、パート先のスーパーの遅番で帰ってきたのは八時過ぎ、夕食をつくっていた。
 その夜の献立はカレーライスで、三人揃って夕食を摂り、それが終ったのが九時半頃だった。そのあたりから市原の苛立ちが酷くなった。
「良太、てめえ、まだ寝ないのか」
 恐ろしい表情で睨みつけた。
「あっ、あの、寝てもいいけど、まだ眠くないから、それで」
 いったとたん、市原の平手が良太の頬を打った。畳の上に転がったが、すぐに起きあがった。起きないと怒鳴られることはわかっていた。直実を見ると、部屋の隅で肩を落してうなだれていた。顔をそむけていた。
「お母さん……」
 と呼んでみたが返事はない。
「てめえ、直実に助けを求めているのか。馬鹿野郎が」
 また殴られた。今度は拳のようだった。目の周りに激痛が走ったと思ったら気が遠くなった。
「なるほどな。殴って気絶させるという手もあるな」
 市原の声がぼんやりと耳を打った。
「それだけはやめて。もし、何かあって大変なことになったら。だから、それだけはやめて」
 あれは、お母さんの声……そう感じたとたん、意識がはっきりしてきた。良太はのろのろと起きあがった。
「なかなか、しぶといガキだな、てめえは。だったら、二時間ほど外に行ってこい。十二時頃ここへ戻ってこい」
「それは……」
 直実が泣き出しそうな声をあげた。
「だったら殴り倒すか」
 市原が直実を見た。直実の視線が床に落ちた。黙りこんだ。
「出てけ、さっさと」
 市原が怒鳴った。
 良太はいわれるまま、アパートから外に出た。悲しくて仕方がなかった。隅田川沿いにある、小さな公園のベンチに向かって、とぼとぼと歩いた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)