連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・後 池永 陽 You Ikenaga

「なるほど、そういうことか」
 話を聞き終えた麟太郎は太い腕をくみ、
「で、目のほうは大丈夫だったのか」
 と訊いた。
「次の日、目のお医者さんにお母さんと一緒に行って診(み)てもらって、大丈夫だといわれて……それから三日間学校を休んで」
 掠(かす)れた声で良太はいった。
「今日学校に行って、その帰りに診療所へきたというわけか」
 そのとき麻世が押し殺した声をあげた。
「良太っ」
 呼びすてだった。真正面から良太の顔を見た。
「良太も男だったら、殴られたら殴り返せ。負けてもいいから殴り返せ。殴られて泣いてばかりいたら駄目だ。もっと怒れ。小学生でも良太は男だろ。何だったら、私が喧嘩の仕方を教えてやってもいい」
 目のなかに凄まじい光があった。
 これは一匹狼のヤンキーの目だ。
 麻世が本性を現した。
 自分の境遇に良太を照らし合せている。
「えっ、でも僕は体も小さいし、殴り返せといわれても……」
 泣き出しそうな声で良太がいった。
「私も小さいころから苛(いじ)められてばかりいた。それでも負けるのは嫌だった。それなりに抵抗してきた。逃げなかった。まして良太は男なんだから」
 今度は諭(さと)すようにいった。
 ようやく昂奮が収まってきたようだ。
「だけど麻世。殴られても蹴られても、じっと耐え忍ぶのが真の男というのもあるぞ」
 麟太郎がここで割って入る。
「恐ろしさで逃げるのと耐え忍ぶとでは、ちょっと違うと私は思うけど」
 すぐに麻世が反論する。
「それもそうだが……まあ、とにかくこの話はここで終りだ」
 麟太郎は麻世に目くばせする。
「じゃあ、行くんだな――」
 ぼそっと麻世がいい、麟太郎は小さくうなずく。納得したように麻世も首を縦に振る。
「ところで、何か面白い話はないか、麻世」
 鷹揚な声で麟太郎がいうと、
「あるよ」
 あっさり、麻世は答えた。
「待合室に座っていると、いろんなことが耳に入ってくるんだけど、じいさんはみんなに、やぶさか先生と呼ばれてるんだってな。ところが、やぶはわかるんだけど、さかのほうがさっぱりわからないんだけど」
 とたんに麟太郎の体に狼狽が走る。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)