連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・後 池永 陽 You Ikenaga

「それは何といったらいいのか、麻世の誤解だ。まず、やぶというのはやぶ医者だからというのではなく、これは一種の親しみというか、尊敬というか」
 つかえながらも、一気にいった。
「親しみはわかるとして、やぶが尊敬というのは、ちょっと無理があるんじゃないのか、じいさん」
 軽くうなずきながら麻世はいう。
「お前はまだ若いからわからんだろうが、大人の間では尊敬の思いが時として、逆の言葉として出てくることも、間々あってな。まったく人間というのは妙な生き物というしかないな」
 神妙な面持ちで麟太郎はいう。
「じゃあ、やぶさかの、さかというのは、どういう意味なんだ」
「これは簡単だ」
 落ちつきを取り戻したのか、厳(おごそ)かな声で麟太郎はいう。
「うちの診療所の前だけが、どういう加減か少し勾配がついていて坂になっているんだ。直して平らにしてくれればいいのだが、何度役所に掛け合っても特段の支障はないでしょうの一言で却下。それで、やぶと坂を合せて、やぶさか。悔しいけれど、これが語呂がよくてな――まあ、そういうことだ」
 いいながら、料理をつくっているとき麻世が麟太郎の得意の『唐獅子牡丹』を唄っていたわけが、ようやくわかった。すべては待合室での噂話からだ。あそこで聞き耳を立てていれば、この界隈のことは大抵わかる。そういうことなのだ。
 そんなことを考えていると「お待ちどおさま」という夏希の声。オムライスの到着だ。どうやら話がひと段落するのを窺っていたようだ。むろん、カウンターのなかに話の内容までは届かないが。
 三人の前に、平べったい玉子を巻いた昔ながらのオムライスが並ぶ。上には真赤なトマトケチャップがかけ回してある。見るからにうまそうだ。
「じゃあ、いただこうじゃないか」
 麟太郎の声に麻世と良太がスプーンを手に取る。むろん、麟太郎もだ。夏希はといえば、どういうわけか、すぐ近くの席に腰をおろして三人の食べっぷりを見ている。
「どう、おいしい?」
 夏希の声に三人は同時にうなずく。
「オムライスは、やっぱり昔ながらの平べったい玉子を巻きこんだやつが一番だな」
 麟太郎の言葉に、
「嬉しいことをいってくれますね、大先生。でも、実をいうと今風のふっくら玉子のつくり方がよくわからなくて。それで、いまだに昔のままで」
 少し恥ずかしそうに夏希はいう。
「昔から食べてきたものが、一番。それに勝るうまさはないからな」
 そんな話をしながら、三人はオムライスを食べ終える。ほっと一息ついたところで夏希がおもむろに口を開いた。視線は麻世の顔だ。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)