連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・後 池永 陽 You Ikenaga

「ねえ、麻世さん。あなたって、すっごく面白い。高校を卒業したら、私と一緒に仕事をしない。もし、お金が好きなら、それとも嫌い?」
 夏希が妙なことをいい出した。
「そりゃあ、嫌いじゃないけど」
 初めて麻世が呆気に取られた表情を浮べた。
「私と麻世さんが一緒になって、銀座にでも水商売の店を出せば大繁盛間違いなし。そうは思わない」
 とんでもないことをいい出した。
「残念だけど、それは無理。私に接待業なんかできるはずがない。だから無理」
 きっぱりといい切る麻世に、
「それは麻世さんの単なる思いこみ。女って片足を一歩踏み出すだけで、生き方も考え方もがらっと変えることのできる不思議な生き物なんだから」
 噛んで含めるように夏希はいう。
「でも、無理です」
 仏頂面で麻世は答える。
「そうか、麻世さんは看護師志望だったもんね。前に大先生が、そんなことをいってたのを思い出したわ」
 夏希の言葉に麻世の視線が動いて、じろっと麟太郎の顔を見る。何かいうかと思ったが、何もいわなかった。
「麻世の気性なら看護師にはうってつけだから、なってくれたら嬉しいなと思ってよ」
 麟太郎のほうが口を開いて、弁解じみた言葉を出した。
「私が看護師……」
 ぽつりと麻世が呟いた。
「もしくは、水商売の女王」
 すかさず、夏希が言葉を出した。
 そのとき入口の扉が開いて、数人の男たちが威勢よくなだれこんできた。そろそろ、スナック『田園』の開店時間なのだ。当然、夏希と麻世の会話は打ち切られ、店内は急に賑わしくなった。

 時計を見ると六時半。もうすぐ通用口から直実が出てくるはずだ。今日が直実の早番の日だということは良太に訊いて確認ずみだった。麟太郎は、いつになく真剣な表情で通用口を凝視する。傍らにいるのは麻世だ。
 しばらくすると、直実が通用口から姿を見せた。すぐに麟太郎が動いて、直実に近づいた。
「高原さん」
 麟太郎の声に直実が振り向く。しばらく麟太郎の顔を見てから、それが誰であるかに気がついたようだ。
「そのせつは、大変お世話になりました」
 掠れた声でいい、麟太郎に向かって深々と頭を下げた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)