連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・後 池永 陽 You Ikenaga

「実は高原さん。私たちは高原さんに重大な用件があって、ここで待ってたんです。少しの時間でいいのでお話をさせていただけませんか。むろん、重大な用件というのは息子さんの良太君のことです」
 正直に話した。
「良太のですか……」
 直実は何かを考えているようだったが、
「じゃあ、少しだけなら」
 と細い声をあげた。
 麟太郎と麻世は、直実を近くの喫茶店に誘った。奥の席に座り、頼んだ飲物がテーブルに並べられてから、おもむろに麟太郎が口を開いた。
「市原という男のこと、日々の虐待のこと、お母さんのこと――良太君から、いろいろ聞きました」
 と麟太郎はいい、良太から聞いたことのすべてを順番に直実に話した。直実は肩を落して話を聞いている。体が小刻みに震えていた。歯を食いしばっているようだった。
「すみません」
 話を聞き終えた直実は低い声でいって、頭を下げた。
「私たちに謝ってもらっても――」
 と麟太郎がいったところで、
「いったいあんたは、良太君をどうするつもりなんだ。すてるつもりなのか」
 麻世がたたみかけるようにいった。
「すてるだなんて、そんなことは考えたこともありません」
 視線を膝に落したまま、直実はいった。
「でも、現実には、すてているも同然じゃないか。男のために、子供を夜遅くに外へ放り出す親がどこにいるんだよ。そんなもの、親じゃないよ」
 麻世は睨みつけるようにしていうが、直実は視線を膝に落したままだ。
「そもそも、その市原という男は何者で、お母さんとはどこで知り合ったんですか」
 できる限り優しい声で麟太郎はいう。
「一年ほど前に知り合った人で、長距離トラックの運転手をしていると本人はいってますが、本当かどうか……」
「そんな大事なことも知らずに、お母さんは市原という男とつき合ってるんですか」
 呆れ声を出す麟太郎に、
「すみません、怖くて……」
 直実はそういって、これまでのいきさつを話し出した。
 市原と知り合ったのは一年ほど前。
 場所は直実が勤めている、スーパーだった。市原は週に何度か、そのスーパーに買い物にきていて、レジを打っていた直実とは顔馴染みの間柄だった。
 あるとき市原がレジを打っている直実にこんなことをいった。
「仕事が終ったら、お茶でも飲みにいきませんか」
 どこにでも転がっている、ありきたりの言葉だったが、その一言が直実の心を揺り動かした。そのとき直実は三十六歳、夫と離婚して三年がたっていた。淋しかった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)