連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・後 池永 陽 You Ikenaga

 直実は市原の誘いに応じ、二人は急速に親しくなった。年は直実のほうが上だったが妙に気が合ったし、市原も離婚経験者だった。四年ほど前に妻と別れたが、子供はいないと市原はいった。直実は市原に好意を持ち、胸がときめくのを感じた。市原は筋肉質で背も高く、そして何よりも優しかった。
 直実が市原と体の関係を持ったのは声をかけられてから三カ月ほどがたったころ。直実は市原に夢中になった。が、それを境に市原の言動が変ってきた。それまでの優しさは影をひそめ、直実に対して命令口調で物をいうようになった。そして、暴力――市原はわけもなく、直実と良太に暴力をふるうようになった。
 直実はこうした事情を一語一語噛みしめるように麟太郎と麻世に話した。
「ずっと猫をかぶってたなんて、最低の男じゃないか」
 話を聞き終えた麻世がぼそっといった。
「確かに最低だな――しかし、それはそうとして、現在のお母さんの気持はどうなんですか。市原と別れるつもりはあるんですか。そこのところが、いちばん大事ですから」
 諭すような口調で麟太郎がいう。
「別れる気はあります。でも、市原がそれを聞いてくれるとは。それにそんなことを市原にいったら……」
 初めて直実が顔をあげた。
 怯えの色が顔一杯にあった。
「何か弱みでも、市原に握られてるんですか」
 麟太郎の言葉に、
「そんなものはありません。ただひたすら、私は市原が怖くて。自分のバックには暴力団がついているからと、いつもいってましたし……」
 顔の怯えの色がさらに濃くなった。
「そんなことは嘘かもしれないし、もし事実だとしても何とでもなりますから心配は無用です。ところで良太君は、ひょっとしたらお母さんは市原にお金を借りているかもしれないといってましたが、本当ですか」
「それは誤解です。私は市原から一円のお金も借りてはいません。ただ市原はアパートを訪ねてくるたびにお金をせびって、それを渡しているところを良太が見て誤解したんじゃないでしょうか」
 まくしたてるように直実はいった。
「金までせびってたのか。常習だな、そいつは。女ったらしの」
 絞り出すような声を麻世があげた。
「なるほど、そういうことですか。なら、問題はないですね」
 独り言のように麟太郎はいい、
「じゃあ、別れましょう、お母さん。良太君のためにも、お母さんの将来のためにも、それが一番だと思いますから」
 きっぱりといい切った。
「あの、別れるといっても、市原がそんなことを承諾するとは」
 おずおずと直実が声をあげた。
「大丈夫だよ。その最低男は、ぼこぼこにして二度とあんたたちに手を出すことなんか、できないようにしてやるから」
 麻世が身を乗り出してきた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)