連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・後 池永 陽 You Ikenaga

「あの市原をぼこぼこって、市原は体も大きいですし喧嘩もかなり強いはずですし、いつもナイフを持ち歩いているとも。いったい誰がそんな人をやっつけると……」
 怪訝そうな表情を直実は浮べる。
「私がやってやるから、大丈夫だよ」
 何でもないことのように麻世はいい、薄い胸を張った。
「あなたが、ですか」
 きょとんとした表情を浮べる直実に、
「こいつのいうことは気にしないでください。とにかく、ちゃんと別れることができるようにしますから、心配は無用です」
 笑みを浮べて麟太郎はいってから麻世のほうを見ると脹(ふく)れっ面だ。
「そこでお母さんに提案なんですが、市原は今度いつアパートのほうに」
「明日の夕方くるはずですが――明日は私も早番ですし、六時頃には顔を見せるはずですけど」
 怪訝そうな表情がまた浮ぶ。
「じゃあ、市原がきたらこういってやってください。私と結婚したいという人が出てきた。その人にあなたのことを話したら、ケリをつけようということになり、六時半に浅草寺脇の五重の塔の裏で待っていると――そこで、私が市原に会って話をきっちりつけますから」
「先生が、ケリをつけるんですか。先生ってお医者さんですよね」
 驚いた表情を顔一杯に浮べた。
「ご不審でしょうが、ここはとにかく私に任せて、良太君のためにも」
「ああっ、はい」
 曖昧に直実はうなずく。
「それから、その場にはお母さんはもちろん、良太君も連れてきてください。すべてを見せたほうがいいですから」
 念を押すように麟太郎がいうと、
「あのさあ」
 麻世が割りこんできた。
「あんた、本当に市原という男と別れる気があるんだろうね。話を聞いていて、何となく心配になってきたんだけど。本当に別れられるんだろうね」
 ドスの利いた声でいった。
「はい、多分……」
 とたんに麻世が吼(ほ)えた。
「多分じゃ困るんだよ。あんたなんかどうなってもいいけど、良太のためにきっちり別れてもらわないと」
「はい、わかりました。きっちりと別れます。良太のためにも」
 直実は麻世に向かって何度も頭を下げた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)