連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・後 池永 陽 You Ikenaga

 次の日――。
 六時を過ぎてから、麟太郎は麻世と二人で浅草寺脇の五重塔に向かった。着いたのは六時半頃だったが、まだ市原の姿は見えない。辺りはそろそろ夕暮れが迫っていた。
「本当にくるんだろうか」
 心配そうに麻世がいう。
「くるだろう。昨日あれだけ、あのお母さんは麻世に脅されてるしな。こないわけにはいかんだろうよ」
「何だよ、それっ」
 じろりと麻世が睨む。
「市原のせいで、あのお母さんの心には、脅しや暴力に対してトラウマのようなものが生れているはずだからよ。あれだけ脅せば必ず、昨日のことは市原に話すはずだ。市原もそんなことを聞けば黙っている人間じゃないだろうしな」
 淡々と麟太郎は言葉を出す。
「それならそれでいいんだけど、本当にじいさんが相手をして大丈夫なのか。向こうはかなり喧嘩なれしているようだし、事によったらナイフが出てくるかもしれないし。私が相手をしたほうがいいんじゃないか」
 不満そうな口ぶりに、
「麻世は駄目だ。お前は加減というものを知らねえようだからよ。やっぱりここは、年の功でよ――なあに、心配はいらねえよ。柔道で鍛えた俺の体はとにかく頑丈だから、少々殴られても蹴られてもびくともしねえからよ」
 煙に巻くようなことをいった。
「まあ、いいけどさ。だけど、あの女。本当に市原と別れるつもりがあるんだろうか。女ってやつはイザとなると、とんでもない行動に出るときがあるから――」
 しみじみとした口調でいった。
「麻世も女だろうが」
 ぽつりという麟太郎に、
「私は女じゃないよ。男だよ」
 低い声で麻世は答えた。
 二人がそんなやりとりをしていると、人影が三つ近づいてくるのが見えた。
「きたようだな」
 と麟太郎が呟いたとたん、その中の大きな影が怒鳴り声をあげて前に躍り出た。
「てめえか、俺の女に手を出して結婚するとかほざいているのは。見たところ、相当なじじいのようだが、気は確かか」
「恋は年でするもんじゃねえからよ」
 麟太郎も前に出て二人は正面から睨み合った。なるほど市原は体が大きく、喧嘩も強そうだ。
「ほざけ。馬鹿野郎が――で、てめえ、いくら出すつもりなんだ。直実の代金として」
 とんでもないことを口にした。
「聞いたか、お母さん。この男、金次第ではあんたを譲ってもいいそうだ」
 麟太郎は大声でいってから、
「金などは一円も出さん。俺はケリをつけるために、ここにきたんだからよ」
 いい終えたとたん、市原の右の拳が麟太郎の左顎を襲った。強烈だった。が、麟太郎の太い首は容易に脳を揺らせない。次は左の拳が麟太郎の脇腹を襲う。いいパンチだったが、麟太郎は脇腹の筋肉を収縮させて耐える。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)