連載
下町やぶさか診療所
第三章 怒る子供・後 池永 陽 You Ikenaga

「利かねえ、パンチだな」
 挑発するように麟太郎はいう。
「てめえ、なめやがって」
 市原はつづけざまに数発のパンチを麟太郎の顔に向かって放つ。さすがに何発も顔に受けるわけにはいかないので、太い腕を顔の前で交差させてブロック。
「てめえ、ぶっ殺したる」
 市原の顔が赤く膨らんだ。後ろのポケットから何かを取り出した。刃渡り十五センチほどのナイフだ。いきなり切りつけた。麟太郎の左腕に赤い線が走った。
「そこまでだ――」
 そのとき叫び声がおこり、五重塔の脇から男が二人飛び出してきて市原に襲いかかった。
「暴行傷害、銃刀法違反、それに殺人未遂の現行犯で逮捕する」
 男たちは手際よく市原に手錠をかけた。
 それを見たとたん、麟太郎の体から力が抜け、ぺたんとその場に尻もちをついた。すぐに麻世、良太、直実の三人が飛んできた。
「大丈夫か、じいさん」
 麻世が叫んだ。
「大丈夫だ。ちょっと力が抜けただけだ」
 麟太郎は地面に両手をついて立ちあがり、
「この人たちは懇意にしている、浅草署の刑事さんたちだ。こうなることを予想して、きてもらった」
 大きく深呼吸していった。
「大先生、腕の傷のほうは?」
 刑事の一人の問いに、
「大したことはねえよ。自分でちゃんと縫うから大丈夫だ。それよりもその男、叩けば他にも余罪がありそうだから、しっかり調べてくれよ」
 念を押すように麟太郎はいう。
「徹底的に調べますから大丈夫です。じゃあ私たちはこれで。大先生も調書を取りますから、あとで署のほうへお願いします」
 そういって二人の刑事は市原を連れて去っていった。
「これで市原もしばらくは出てこられんだろう。別れるより仕方がないよな、お母さん」
 麟太郎の言葉に、きまり悪そうに直実はうつむく。
「良太っ」
 麟太郎はぽんと良太の頭を叩く。
「怒りにまかせて相手に殴りかかるのもいいが、耐えて忍ぶのも男の勇気。これがその見本だ。ちゃんと覚えとけよ」
「うん。ちゃんと覚えとく」
 こくんと首を前に倒す良太から、麟太郎は視線を麻世に移す。
「亀の甲より年の功――そういうことだ、麻世。お前もよく覚えとくといい」
 じろりと睨むと、麻世は心持ち顔を横に向けた。わずかにうなずいたようにも見えた。
 綺麗な顔だった。

(了)



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)