連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・前 池永 陽 You Ikenaga

 待合室に入ると、人はまばらだった。
 ほとんどが同じ町内の見知った顔だ。
 靖子は軽く頭を下げてから、なるべく声をかけられないように、隅のイスに腰をおろす。人と話を交わすのが辛かった。それが知った顔ならなおさらのことで、そのために人が少なくなる診療所の終りがけにここにきているのだ。
 靖子は体を竦(すく)めるようにして、自分の名前が呼ばれるのを待つ。
 そのとき、後ろの席で人の立ちあがる気配がした。気配はすぐに移動して、自分の席の隣に誰かが座った。
 そっと隣を窺い見ると、
「こんにちは、おばさん」
 と、その誰かはいった。
 まだ、若い女の子だった。どこかで見た覚えはあるが、同じ町内の娘ではない。となると……靖子が首を傾げていると、
「この診療所で世話になっている者で、沢木麻世といいます」
 ぺこっと頭を下げた。
 思い出した。院長の親戚筋の娘とかで、何か月か前にここに越してきて住みついた高校生だ。何度か、この待合室に座っているのを見たことがある。
「あっ、こんにちは」
 靖子は挨拶を返すが、それ以上何を喋っていいのかわからない。
「じいさんが、時間があったら、おばさんの話し相手をしてやれっていうもんだから」
 と麻世は抑揚のない声でいった。
 じいさんというのは大先生のことなのか……親戚筋の娘だから、じいさんと呼んでもいいのかなどと妙な納得を靖子はする。
 そして、この娘と話をしていれば、知った人に話しかけられることもないだろうという大先生の配慮なのかもしれないとふと思う。ということは、自分の置かれている状況を、この娘は知っているということなのだ。靖子の心が少し軽くなる。
「どうですか、旦那さんの容体は」
 という麻世の顔をよくよく見ると、はっとするほど可愛かった。
「変らないですね。入院して二年近くが経ちますが、うんともすんともいいません。本当に何を話しかけても、うんともすんともです。石の地蔵さんに話しかけているようなもので情けなくなります」
 大きな溜息をついて靖子はいう。
「石のお地蔵さんですか」
 ぽつりという麻世の顔に暗いものが走ったような気がした。
 可愛い顔が一瞬、大きく歪んで見えた。ざわっと胸が鳴った。この表情は本物だ。おためごかしではなく、本物の表情だ。ひょっとしたら、この娘自身も何か暗いものを背負っているのでは……そんな思いが靖子の胸をかすめた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
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第五章 幸せの手・後
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第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)