連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・前 池永 陽 You Ikenaga

「お金のほうもなかなかね。いちおうは正社員なんだけれど、ガソリンスタンドではそれほどのお給料はもらえませんし」
 思わず本音をもらすと、
「ガソリンスタンドですか……うちの母親もガソリンスタンドに勤めてたけど」
 麻世の口からこんな言葉が返ってきた。
「そうなんですか。それで、そのお母さんは今?」
 思わず身を乗り出すと、
「男と二人で暮しています……だから」
 低すぎるほどの声で麻世はいい、唇をぎゅっと引き結んだ。
 やはり、事情がありそうだ。この娘は何かを背負っている。何か暗くて辛いものを。靖子はそう思った。もしそうなら、自分とは同類だ。年は親子ほど離れていたが、靖子は麻世に対して親近感を抱いた。
「麻世さん、あなたひょっとして、何か辛いものでも抱えているの」
 優しい言葉が出た。
 こんな優しい言葉が口から出たのは、どれほどぶりのことなのか。
「もしよかったら、私に何でもいって。話せば気が楽になるのは確かだから」
 靖子はできる限り柔らかな声で麻世にいった。
 いつもとはまったく逆の立場になっていた。
 麻世がゆっくり首を振った。
「そうだよね。まだ私たち、初対面だしね。でも、次に会うときはもう顔馴染みだからね。その気になったらね」
 何度もうなずきながら靖子はいう。
 そして、人間とは何と勝手なものだろうと、つくづく思う。普通の人間の前では素直になれないくせに、同じ類いの人間の前なら素直になれるどころか、偉そうな顔をして意見じみたことさえ口にできるのだ。
「おばさん……」
 ぼそっと麻世がいった。
「どんな状況でも、生きていかなければならないから」
 靖子を見る目が潤んでいた。
 本物の涙だった。自分がいつも流す自棄の涙とは違うものだと思った。麻世は前向きで自分は……が、このとき靖子は麻世と心が通い合ったような気がした。二人は同じ種類の人間。そんな気がした。
 そのとき診察室の扉が開いて、
「石坂靖子さん、どうぞ」
 という看護師の八重子の声が聞こえた。
「じゃあ、麻世さん、また」
 靖子は麻世の肩にそっと手を置いてから、ゆっくりと立ちあがった。不思議だったが、心は凪(な)いでいた。
 診察室のなかに入り、靖子は麟太郎の前のイスにそっと腰をおろす。
 いつもなら、これから麟太郎の前で愚痴の連発だ。知りあいから優しい言葉をかけられても、おためごかしにしか聞こえなかったが相手が医者なら話は別だった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)