連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・前 池永 陽 You Ikenaga

 優しい言葉にも厳しい言葉にも、それなりの重みがあった。相手は医療の専門家なのだ。腹を立てることなく、素直に耳を傾けることができた。というより、靖子は自分の気持の吐き出す場所が欲しかった。辛抱強く話を聞いてくれる相手が。
 その相手に麟太郎は、うってつけだった。真面目に話を聞いてくれて、面倒くさがる様子も見せなかった。何をいおうが、麟太郎は患者の味方だった。有難かった。
 麟太郎は靖子から診療代を取らなかった。
「さて、靖子さん。今日は何の話をしようかいね」
 おどけた口調で麟太郎はいい、小さくうなずく。
「いえ、大先生。今日は特段、話をすることはないといいますか……」
 こんな言葉が口から出た。
「話がないって――それはおそらく、いいことなんだろうが、それにしても」
 麟太郎の顔に怪訝な表情が浮ぶ。
「さっき、待合室で、大先生のご親戚の麻世さんという人と話をしましたら、気分のほうが落ちついてきたといいますか」
 ありのままを靖子はいった。
「時間があれば靖子さんの話し相手をと頼んだのは俺なんだが。そうか、麻世と話をして気分がなあ」
 麟太郎は独り言のようにいい、
「あいつは親戚筋の大切な預かりもんというか、ちょっと変った性格というか。根は素直でいいやつなんだけど」
 奥歯に物の挟まったようないい方をした。
「いい子ですよ、あの娘は」
 靖子はぽつりといい、
「だけど、何だか胸の奥に、相当重くて辛いものを抱えているような。そんな気が私にはしました」
 低い声でいった。
「それはまあ。俺の口からは何ともいえねえけどよ。いずれにしても、靖子さんがそう思ったということは……」
 麟太郎は言葉を濁して天井に目をやった。
「だからこそ、どこか心が動かされたんだと思います。心が通いあった同類項なんですよ、私たち。辛い思いを背負った」
 いっているうちに気持が昂(たかぶ)ってきた。
「心が通いあう、同類項か」
 呟くようにいって麟太郎は靖子を見た。
 悲しげな目に見えた。
 妙に気になる目だった。

 靖子の夫の章三が心室性の不整脈による心肺停止の状態に陥ったのは二年ほど前。靖子が四十五歳、章三が五十一歳のときだった。
 その夜、理由もなく靖子が目を覚ましたのは夜中の二時半頃。枕元灯の明りのなか、何気なく隣の布団で寝ている章三に目をやったが、普段のまま。が、妙な胸騒ぎを覚えて、章三の寝顔を覗きこむと様子が変だった。静かすぎるような気がした。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
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第五章 幸せの手・後
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第四章 底の見えない川・後
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第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)