連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・前 池永 陽 You Ikenaga

「あなたっ」
 軽く布団を揺すってみた。何の反応もなかった。胸がどんと音を立てた。強い力で揺すってみたが、やはり反応はない。慌てて枕元灯を明るくし、胸に手をやった。鼓動がなかった。感じられなかった。一瞬で顔から血の気が引いた。
 靖子がまずしたのは、懇意にしていた、やぶさか診療所への電話だった。すぐに麟太郎が出て消防署へ連絡してくれた。数分の間に救急車がきて、章三は麟太郎の息子が勤める大学病院へ運ばれた。
 ちょうどその夜は麟太郎の息子の潤一が当直で、汗だくになりながら章三に蘇生の処置を施したのも潤一だった。病院に運びこまれてから、十五分ほど後。アドレナリンの注入と潤一の心臓マッサージ、それに電気ショックで章三の心臓は再び動き出した。すぐに強心剤の点滴が始まる。
「ありがとうございます、若先生」
 と叫ぶ靖子に、潤一は流れ出る汗を拭いもせずにこんなことをいった。
「楽観は禁物です……蘇生させるのは、比較的容易なんですが、問題はこれからです」
 意味がわからなかった。怪訝な表情を浮べる靖子に、
「心臓は動いても、脳のほうの損傷がどの程度で治まっているか。靖子さんもご存知だとは思いますが、心臓が停まれば脳に血液がまわらなくなり、酸素が行きわたらなくなります。酸素が行きわたらなければ脳は壊死(えし)していきます。脳幹は強靭なのでまず大丈夫だと思うんですが、問題なのは人間の行動を司る大脳皮質というところで、ここは脳幹部とは違って極めて脆弱といいますか、もろいといいますか。ですから、ここの損傷次第によっては……」
 沈痛な面持ちで潤一は言葉をつづけた。
「つまり、意識が戻って今まで通りの生活ができる可能性がある一方、最悪の場合を考えてみますと、章三さんはこのまま意識が戻らない状態……いいづらいことではありますが、植物状態になる恐れもあります。問題は脳への酸素量で、靖子さんが章三さんの心肺停止の状態に気づくまで、どれぐらいの時間が経っていたかということですが」
 わからなかった。何といっても夜中のことなのだ。章三の心肺停止が靖子の目の覚めるどれほど前に起こったのか。
「顔を見ていると、苦しんだ様子もほとんどなく、心臓への打撃は一度にきたようにも思えますが――苦しんでいれば、靖子さんもそのときに気づいたでしょうけど」
 掠(かす)れた声でいう潤一に、
「植物状態でも何でもいいので、あの人を生かしてやってください。あの人が生きているというだけで私は、生きてるだけで、ただ生きてるだけで」
 靖子は潤一に向かって叫び声をあげた。
 しかし、章三の意識は戻らなかった。
 あれから二年ほど。
 章三は大学病院の裏手にある長期入院者用の個室で、流動食用のチューブを鼻からいれられ、喉元には気管切開の穴をあけられ、尿を取るためのチューブと袋をぶらさげて身動きひとつしないで静かに眠っている。かすかに音を立てているのは枕元に設置された心電図モニターの機械音だけだ。
 最初は救(たす)かって良かったと喜んでいた親戚の者も今はほとんど訪れることもなく、病室に顔を見せるのは靖子と、外で所帯を持っている一人息子の章治だけだった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
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第五章 幸せの手・後
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第四章 底の見えない川・後
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第三章 怒る子供・後
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第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)