連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・前 池永 陽 You Ikenaga

 章治は今年二十六歳。結婚したのは大学を出てすぐの三年ほど前のことで、現在は都内の食品会社の営業をやっていた。最初の子供がこの秋生まれる予定になっていて、今はその準備に追われる毎日で大変な時期でもあった。その章治が半月ほど前、章三の病室に顔を見せたとき、こんなことを口にした。
「あのとき。いっそ死んでくれたら、よかったのに」
 靖子の胸がぎゅっと縮んだ。
「何をいってるの、あんたは。苦しい生活のなか、大学にまで行けたのは誰のおかげだと思ってるの」
 思わず怒鳴りつけたが、このとき靖子の脳裏に担当医の潤一の言葉が浮んでいた。あれは、章三の意識の回復の有無を訊いたときのことだ。
「酷なようですが、その見こみは……世界中の症例をみても、この状態からの現状復帰というのはちょっと考えられません」
 靖子の顔から視線をそらしていった。
 何度訊いても返ってくる言葉は同じだった。
「だけど、オフクロ」
 章治の声に靖子は我に返る。
「死んでるのでもなく、生きてるのでもなく。このまま、あと十年も二十年もこの状態がつづいたらどうするの。医療費のほうだって払いつづけるのは」
 怒鳴るようにいった。
 そう、大変だった。いくら高額医療の分は戻ってくるといっても、収入は靖子がガソリンスタンドで働いている分だけだった。たまに章治が助けてはくれるものの、向こうには向こうの家庭があった。
「だから、やっぱり、あのとき」
 章治は唇を尖らせた。
「あんた、お腹のなかでは何を思ってもいいけど、それを口に出していっちゃ駄目。あと戻りができなくなるから。まして、ここはお父さんの病室。すぐ前のベッドで、いくら意識はないといってもお父さんは眠ってるんだからね」
 噛んで含めるようにいうが、実をいえば章治は靖子の代弁者でもあった。
「いっそ、死んでくれたら」
 どれほど、そんなことを思いつづけたか。
 そうなったら、どれほど楽になるのか。
 しかし、自分がそれを口に出していえば人間ではなくなる。何があろうと、そんなことは口にしてはいけない。こらえて、こらえて、こらえぬかなければ。
 だが、靖子のその思いも章治の次の一言でぐらりと揺れた。
「確か、安楽死っていうのが、あったんじゃないかな。無理に生き永らえさせないで、楽に最後を迎えさせてやろうという」
 それだけ低い声でいって、「俺は帰るわ」と片手をあげて章治は背を向けた。
「安楽死……」
 口に出してから慌てて後ろのベッドの上を見ると、章三は表情のない顔で眠っていて、こそりとも動かなかった。
 靖子が主治医である潤一と話をしたのは、その日から五日後のことだった。
 場所は病室の外の廊下。とても章三が眠っている病室のなかで話のできる内容ではなかった。
「若先生。くどいようですけど主人はこの先、意識が戻って、ちゃんとした生活を送るという可能性はあるんでしょうか」
 靖子はまず、いつもの質問を口から出した。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第六章 妻の復讐・後
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第四章 底の見えない川・後
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第一章 左手の傷(前)