連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・前 池永 陽 You Ikenaga

「靖子さんには酷な話ですが、もう二年ほどが過ぎてますから。可能性でいえば、ほとんどゼロといったほうが。ただ――」
 ぽつりと潤一は言葉を切り、
「脳医学の連中にいわせれば、脳というのはまだ未知の部分がほとんどで、この先どんな大発見がなされ、どんなことが起きるかは極めて興味深い分野だと」
 掠れた声で後をつづけた。
「若先生も、そう思ってるんですか」
 靖子も掠れた声を出した。
「五十年、百年のスパンで考えれば、あるいはそういった画期的なことも可能かもしれませんが、今現在の状況から推し量ると極めて楽観的な考え方だと……すみません、よけいなことをつけ加えてしまって」
 潤一は深々と頭を下げた。
「ということは、主人が治る可能性は絶望的。そういうことなんですね」
 はっきりした口調でいった。
「それは――」
 という潤一の声を追いやるように、
「それなら安楽死は、どうなんでしょうか」
 絞り出すように靖子はいった。
 胸の鼓動が速かった。
 息苦しさを感じた。
 しかし、ここで弱気になったら。
「いっそ、安楽死をさせてやったほうが、主人も楽なような。今のままでは見ているだけでもかわいそうで」
 ちゃんといえた。
 が、潤一の答えは早かった。
「それは無理です」
 首を左右に振り、
「安楽死には条件があります――不治の病で死期が目前に迫っていること。そして、耐え難い苦痛があること。さらに、患者が、それを希望していること。この条件を満たさなければ、安楽死を望むことはできません」
 噛んで含めるようにいった。
「条件……」
 独り言のようにいう靖子に、
「残念ながら、章三さんの場合、この条件を何ひとつ満たしてはいません。だから、どう考えてみても無理な相談です」
「そうなんですか、条件が……」
 放心したような声をあげる靖子に、
「申しわけありません」
 潤一は頭を深々と下げて、その場を去っていった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
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第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
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第二章 二人三脚・後
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第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)