連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・前 池永 陽 You Ikenaga

 靖子はフロントガラスを力を入れて拭く。
 それが終ればサイド、そして、リアウィンドウへと体を移動させる。その間に煙草の吸いがらをすて、給油状況をチェック……。
 給油量を客に知らせ、代金を受け取って最敬礼で車を送り出す。
 時計を見ると十一時少し前。店を閉めるのが深夜の一時なので、まだ二時間ほど勤務は残っている。
 車を送り出した靖子は小さく伸びをしてから事務所に向かって歩く。昼間の勤務は外で立ちっぱなしのまま客を待たなければならなかったが、夜間勤務に限って事務所に入ってもいいことになっていた。
 ドアを開けてなかに入ると、
「ご苦労さんです」
 と愛想のいい声がかかる。
 アルバイトの村川である。
 村川は靖子と同じほどの年で、何でも勤めていた運送会社が倒産してしまい、伝手(つて)を頼ってこの馬道通りにあるガソリンスタンドにきたという、離婚歴のある新人だった。今はバイト扱いだったが、このまま一年間きちんと勤めれば正社員に昇格というのが、ここの給油会社のシステムだ。
 昼間は五人体制で客に当たったが、夜間勤務は二人のみ。今夜の靖子の相棒はこの新人の村川で、深夜の一時まで二人で店をきりもりしなければならない。といっても、夜の十時を過ぎれば客は激減し、あとは楽をさせてもらえるはずだった。
 靖子はここに勤め出して、もうすぐ十年。
 ずっと昼間勤務だけのパート扱いだったが、章三が倒れてからはそんなことはいっていられず、昼夜勤務の正社員になった。とにかく稼がなければ病院代はもちろんのこと、食べるにも事欠くことになる。幸い住居だけは、古くて小さな物だったが持家なので助かっていた。
 事務所のソファーに座っていると、外に出ていった村川が缶コーヒーを両手に持って戻ってきた。
「はい、どうぞ」
 と一本を靖子に渡し、横にあるイスに腰をおろした。
「あっ、ありがとう。これって村川さんのおごりなの」
 と靖子が訊くと、
「もちろん。給料が安いので、これぐらいのことしかできませんが、病気のご主人を抱えて頑張っている靖子さんへのご褒美です」
 村川は笑いながら答えた。
「じゃあ、遠慮なく、いただくわ」
 プルタブを引いて喉の奥に流しこむ。
 冷たさが心地よく広がって、おいしかった。
「ところで、ご主人の容体はどんなものなんですか」
 初めて夫の病状を訊いてきた。
「相変らずの植物状態で打つ手なし――考えると滅入るだけだから、なるべく考えないことにしてるけど、やっぱり考えちゃう。そして、滅入って――それの繰り返し」
 小さな溜息をついて、靖子はいう。



      7   次へ
 
〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number
第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)