連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・前 池永 陽 You Ikenaga

「打つ手がないというのは、辛いですね。この先、この状態がどれぐらいつづくものなのかわからないし」
 しみじみとした調子で村川はいった。
 普通なら、この手のありきたりのことをいわれれば、腹を立てるか白けるかのどっちかだったが、村川に対してはそういった感情は湧いてこなかった。
 同年配にしたら村川はかなり若く見え、長身で引きしまった体をしていた。色は黒かったが顔立ちも甘く、最初に見たときから印象は悪くなかった。
「そんなことより、村川さんのことを教えてよ」
 靖子の口調に甘えたものが混じった。
「俺のことって、俺なんか見た通りの、これだけの人間ですよ」
 ぶっきらぼうにいった。
「それはそうなんだけど、バツイチっていう触れこみだったけど、奥さんとはいつ別れることになったの」
 立ち入ったことを訊いた。
「まだ、ほんの半年ほど前ですよ」
 あっけらかんといった。
「ええっ、そうなの。離婚して、まだ半年しか経ってないの」
 驚きを隠さず口にした。
「勤めていた運送会社が倒産して半月ほどしたころ。あいつ、俺の前に離婚届を広げ、判を押して名前を書けと迫ったんですよ。すったもんだはあったんですけど、結局は仕方がないのでいう通りに。仕事のなくなった男なんて、弱いものです」
 天井を見上げていう村川に、
「それは辛かったわね。落ちこんでいるときに、それでは……」
 しんみりした口調で靖子はいう。
「辛かったですよ。恥ずかしい話ですが、泣きましたよ、俺」
「泣いたの! 村川さん」
 靖子の胸に衝撃が走った。同時に、そんなことまで素直に話してくれる村川に靖子は好感を持った。
「好いた惚れたなどという思いは、とうになくなって空気のような存在になっていましたけど。そこはやっぱり、二十年以上連れ添った仲ですからね……といっても、女房のほうは醒めていて一滴の涙も流しませんでしたけど。女っていうのは強いですね」
 軽く頭を振る村川に、
「女によりけりだと思う。そんな女ばかりじゃないはず」
 思わず口に出してから、靖子は慌てて口に手を当てる。
「ごめん。いいすぎたみたい」
 すぐに頭を下げると、
「可愛いね、靖子さんは。多分、靖子さんはそういう女じゃないんだろうね」
 ふわっと笑ってからすぐに顔を引きしめ、村川はじっと靖子の顔を見つめた。
 ざわっと靖子の胸が騒いだ。
 村川の目のなかに熱いものを感じた。こんな目で男から見られるのは何年ぶりのことなのか。両方の耳のつけ根が熱をおびるのがわかった。手にしていた缶コーヒーを、ぎゅっと握りこんだ。手のひらに冷たさが伝わった。少し心が落ちついた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第七章 スキルス癌・後
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第四章 底の見えない川・後
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第一章 左手の傷(前)