連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・前 池永 陽 You Ikenaga

 そのとき、クラクションの音が聞こえた。
 客だ。
 体全部に安堵感が湧きあがった。
 缶コーヒーをテーブルの上に置き、さっと立ちあがると、正面の村川も缶コーヒーをテーブルに置いて立ちあがった。
「俺が行きますから」
 村川はそういって、制するような素振りで靖子の右手を握りこんだ。右手は十秒ほども村川の両手に握られていた。強い力だった。
 ゆっくりと手を離した村川は靖子の前を離れて外に出ていき、入ってきた車の横に立つ。それを確認した靖子は急いで事務所のなかにあるトイレに飛びこんだ。
 洗面所の鏡の前に立つ。
 自分の顔を覗きこむように見た。
 薄化粧だったが、はげ落ちているところはない。目も鼻も口も……きちんと化粧はのっている。メーカー名の入った野球帽の下から覗いている髪も変りはなく大丈夫だ。ざっと点検してから安堵の吐息をもらす。
 そのあと、しみじみと自分の顔を見る。
 いつもとはちょっと違った顔が鏡のなかにあった。華やいでいた。これは、よそ行きの顔だ。靖子はその顔で、ほんの少し笑ってみせる。鏡のなかに、いつもより若い自分が映っていた。
 ほんの少し見惚れた。とたんに、自分はいったい何をやっているんだろうと、自責の念に駆られた。叱りつけた。病院のベッドで身動(みじろ)ぎもせずに眠っている章三の姿が浮んだ。鏡に向かって、ほんの少し頭を下げた。なぜだかわからなかったけれど、鼻の奥が熱くなった。
 トイレの外に出ると、村川が事務所に戻ってくる姿が見えた。
 ひょっとしたら今夜、村川に口説かれるかも……そんな思いが胸に湧いた。が、そんなことが許されるはずがない。自分は夫のある身で、その夫は植物状態で病院のベッドで眠っているのだ。もし、村川がそういった素振りを見せたら、とにかく拒否しなければと靖子は自分にいい聞かせる。
 ドアを開けて事務所に入ってくる村川を、
「お疲れさま」
 と、靖子は普段通りに迎える。
「いや、参りましたよ、汚い車で。リアウィンドウが特にひどくて何度拭いても汚れが落ちなくて。車はもう少し綺麗に扱ってほしいものです」
 首を振りながら、呟くように村川はいう。
 時計はそろそろ十二時になろうとしていた。
 あと一時間だ。
 気を張りつめて構えていたものの、その夜は何も起きなかった。
 明日、やぶさか診療所へ行こうと靖子は思った。麻世の顔が見たかった。むしょうに話がしたかった。

(つづく)



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)