連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・後 池永 陽 You Ikenaga

 診療所の終りがけ。
 待合室に入って隅のイスのあたりを見回すが、麻世の姿はなかった。靖子は軽い失望感を抱えたまま、そっとイスに腰をおろして体をぎゅっと竦(すく)める。
 少しすると前に誰かが立つのを感じた。
「こんにちは、おばさん」
 見上げると麻世が立っていた。
 わずかに顔を綻(ほころ)ばせたようだったが、その向こうにはやはり、暗いものがあるように見えた。
「あっ、麻世さん」
 といって靖子が笑いかけると、麻世は軽く頭を下げて隣のイスに腰をおろした。
「おばさんが暗いというか難しいというか、そんな顔をして待合室に入ってくるのが、偶然見えたから、それで……」
 麻世は偶然という言葉を口にしたが、違うと靖子は思った。自分のことを心配して待っていてくれた。そんな気がした。なぜだかはわからなかったが、この娘(こ)は自分のことを気にかけてくれている。
「そう、ありがとう。誰も私のことなんか気にかけてくれないのに……本当にありがとね。おばさん、とっても嬉しいわ」
 不覚だったが、いっているうちに鼻の奥が熱くなるのを感じた。奥歯を力一杯噛みしめた。
「旦那さんは相変らず……」
 いいづらそうに麻世が訊いた。
 返ってくる答えは、わかっている問いなのだ。そんな質問は誰だってしたくない。
「そうね。相変らずの植物状態。いったい、こんな状態がいつまでつづくのか――一年なのか、五年なのか、十年なのか。考えると絶望的な気持になってしまう」
 溜息まじりに靖子がいうと、
「おばさんは、旦那さんが死んだほうがいいって思っているの?」
 とんでもない言葉を麻世は口から出した。
 靖子は思わず周囲を見まわした。大丈夫だ。誰も聞いてはいない。
「そんなことはないけれど。今のままだと本人も私も、それに周りのすべての者が辛すぎるからね。病院へ払う治療費だって、馬鹿にならないしね」
 いいわけじみたいい方をする靖子の顔を、隣の麻世が覗きこむように見た。瞬きもしない目でじっと見た。真剣すぎるほどの表情だった。
 どれほどの時間が過ぎたのか。麻世の目が靖子の顔からゆっくりと離れて元に戻った。前方を睨みつけた。
「ひょっとして、おばさん。とんでもないことを……」
 ぼそっといった。
 どきりと胸が鳴った。
 心の奥底を見透かされた思いだった。
 しかし、なぜこの娘はそんなことに思いあたったのか。ひょっとしたら、この麻世という女の子も自分と同じような気持を心の奥底に潜ませているのでは……いずれにしても、これ以上の話をここですることはできない。
「麻世さん、ちょっと外に出ようか」
 靖子は上ずった声でいった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)