連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・後 池永 陽 You Ikenaga

 十五分後。
 二人は今戸(いまど)神社の境内にある、古いベンチに隣り合って腰をおろしていた。
 本堂前の柵には夥(おびただ)しい数の絵馬が吊り下げられている。鈴生りだった。ほとんどが男女の恋愛に関わる祈願や報謝のもので、この神社は縁結びの神様として有名だった。境内には夕方だというのに、まだ十人ほどの参拝客がいたが、すべて若い女性だった。
 隅田川からの風が肌に心地いい。
 靖子はベンチから腰をあげ、社務所前に置いてある自動販売機から冷えた缶コーヒーを二本買って戻ってくる。
「はいどうぞ。甘いのと砂糖なしと、どっちがいい」
 麻世の前に差し出すと、
「あっ、すみません。じゃあ、砂糖なしのほうを」
 無糖のほうを受け取った。
 プルタブを引いて喉の奥に流しこむ。体がひんやりと冷えていく。ベンチは木陰になっていたが、西のほうには、まだ夏の太陽が顔を覗かせている。
「さっきの話だけど」
 低い声で靖子はいった。
「とんでもないことって麻世さんいったけど、あれはどういう……」
 後の言葉は掠(かす)れていた。
「あれは――」
 麻世はごくりとコーヒーを飲んでから、
「旦那さんを殺してしまうんじゃないかと、ふと思って」
 はっきりした口調でいった。
 どうやら麻世は、曖昧なことや嘘の嫌いな性分のようだ。
「それは、いくら何でも」
 と靖子は言葉を濁すが、これは嘘である。
 靖子の心の奥にそんな気持が芽生えていたのは確かだった。あれは担当医の潤一に安楽死の件を切り出して断られた直後だった。病院がやってくれないのなら、いっそ自分の手で――こんな気持が、ふいに心の奥底から湧いてきて、それは徐々に心の片隅にいつのまにか居座ってしまった。
 といっても、居座っているだけで実行に移そうと考えたことは一度もない。ただ、心の片隅でそれは常にぶすぶすと燻(くすぶ)っていて、決して消えようとはしない。深夜、何かの拍子で目が覚め、そいつがふいに鎌首をもたげたとき……体中に鳥肌が立ち、物凄い恐怖に襲われて夜明けまで震えていたことも何度かあった。
「そんなことを思い浮べるなんて、ひょっとして……」
 靖子は掠れた声でいった。
「麻世さん自身、そういった気持を?」
 語尾が震えるのがわかった。
 いってすぐに視線を足元に落した。
「あるわ」
 耳元で声が響いた。
「殺したい人がいるの!」
 驚いた声をあげると、
「一人だけ」
 ぽつりといった。
 そっと横を見ると、思いつめた表情で麻世は前方を真直ぐ睨みつけていた。
「誰なの、それは」
 恐る恐る声を出すと、麻世はゆっくりと首を横に振った。正直なのだ、この娘は。答えたくないことは、はっきり断るが口に出すことに嘘はない。そこのところが、自分とは根本的に違う。
「ごめん」
 靖子の口から思わず、謝りの言葉が出た。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)