連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・後 池永 陽 You Ikenaga

「私も一人だけ――でも、心の奥にあるだけで、決して本心じゃないと思う。そんな悲しいこと、できるはずないから」
 いったとたん、心が軽くなった。やっぱり、この娘は同類だった。自分と同じようなものを心の奥にしっかり抱えていたのだ。麻世が自分に関心を持っている理由が、わかった思いがした。年は親子ほど離れていたが、麻世には何でも話せるような気がした。
「実はね、麻世さん。昨日、ちょっとしたことがあってね」
 村川のことだ。本当のことをいうと、靖子は昨夜のことを誰かに話したくて仕方がなかった。そして、すぐ隣に自分によく似た、恰好の相手がいた。麻世なら口は固そうだし、親身になって話を聞いてくれるはずだ。
「この非常時に何を浮かれているんだと、怒られそうなことだけど――」
 靖子はこう前置きして、昨夜の村川との間におきた一部始終を何の誇張もまじえずに正直に麻世に話した。
「これだけ一生懸命頑張ってるんだから、ちょっとした自分へのご褒美だと思って」
 最後に、靖子は恥ずかしそうにこういって、話を締め括(くく)った。
「ご褒美はいいんだけど」
 ぽつりと麻世は口にした。
「その男は、おばさんに対して本気なのか。単なる遊びのつもりで誘っているんじゃないのか」
 男の子のような口調でいった。
「単なる遊びって、そんなこと今まで考えたこともなかったけど」
 途方に暮れた表情でいった。靖子の正直な気持だった。
「その男との、次の夜勤はいつになってるの」
 真剣な目で麻世が見ていた。
「三日後の金曜の夜だけど、それが何か」
 怪訝な表情を浮べて靖子がいうと、
「確かめてやろうかと思って」
 何でもないことのように麻世がいった。
「確かめるって、どうやって?」
 思わず靖子は高い声をあげる。
「男なんてみんな、いいかげんなやつばかりだから。おばさんには、お母さんのようになってほしくないから」
 靖子の問いには答えず、麻世は呟くようにいってから残っていた缶コーヒーを一気に飲みほした。

 ベッド脇のイスに「どっこいしょ」と靖子はいいながら腰をおろす。
 働いているときはこんな声は出さないが、病室に入ってくると、こんな年寄りじみた言葉が時々口から出るようになった。
 章三は流動食用のチューブを鼻から入れられ、喉元には気管切開の穴をあけられて静かに眠っている。ベッドの下にぶらさがっているのは尿を取るためのビニール袋だ。
 身動きひとつしない。
 生きているのか死んでいるのか。
 それさえも定かではない状態だった。
 靖子はつと立って、ベッドの上におおいかぶさり章三の首のあたりのにおいを嗅ぐ。におってくるのは、つんとした薬のまじった体臭だけで他には何のにおいもしない。
 章三が元気だったころ、体に染みついていたのは機械油のにおいだった。近所の町工場に勤めていた章三は腕のいい旋盤工で、こんなことをいつもいっていた。
「俺に削れねえ物は何もねえ。薄紙の表面だって俺は削る」
 面白そうにこんなことをいいながら、機械油のにおいをぷんぷんさせて家に帰ってきた。章三のにおいは油のにおい。靖子はこの硬質な油のにおいが好きだった。
 その章三が今では薬臭いにおいを漂わせて、死んだようにベッドで眠っている。あの、威勢のいい章三はどこにもいない。いるのは章三の脱け殻だけ。そして脱け殻は、生と死の境を彷徨(さまよ)っているのだ。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)