連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・後 池永 陽 You Ikenaga

「あなた……」
 と声を出したとたん、目頭が熱くなった。涙があふれた。
 久しぶりの涙だった。章三が倒れてからしばらくはよく泣いたが一年ほど前からはそれも徐々になくなり、近頃ではほとんど涙を流さなくなっていた。それが今日突然……麻世と腹を割って話をしたせいなのかもしれないと、靖子は思った。
 靖子はちゅんと洟(はな)をすすり、眠っている章三に話しかける。
「面白い女の娘と親しくなったわ。沢木麻世さんていうんだけど、この娘が飛びっきりの美人なのに、どこか変というか何かが欠けているというか。でも、正直でとても真直ぐな性格をしていて話をしていると、どこかで救われるような気になってくるの。その麻世さんにも話したんだけど、会社のほうでちょっと重大なことがあって」
 靖子はそこで言葉を切り、しばらく宙を見つめてから再び口を開く。
「会社に村川さんという、私と同じぐらいの年齢のバツイチの人が入ってきたんだけど、その人がどうも私に気があるみたいなの。この前の夜勤のとき、私その人にじっと見つめられて手を握られたわ。そのときはそれだけですんだけど、今度の二人きりの夜勤のときは正直なところ、何がおこるか私にもわからない……」
 靖子は眠っている章三の顔を、睨むような目で見た。
 あれから村川は靖子に対して積極的な行動はとっていない。
 ただ、時々村川が自分のほうに視線を向けてくるのは感じられた。思いきって目を合せると、村川はちょっと恥ずかしそうな顔をして笑いを浮べた。それだけだったが、靖子には心地よく、嬉しかった。中年になってから、そんな目を靖子に向けてきたのは村川だけだった。
 そんなことも靖子は眠っている章三に話し、
「それで私、あなたに報告があるの」
 と上ずった声でいった。
「もし、その人から体を求められたら、最終的にはそれに応じようと私は思ってる」
 今度ははっきりした口調だった。
「そうでなければ、私の心がもたない。壊れてしまう。私は悪いことがしたい。悪い女になりたい。そうすれば大きな負い目ができて、あなたの面倒も見ていけるような気がする。あなたに対する罪ほろぼしとして――もう、それしか方法はない、それしか」
 一気にいって、靖子は肩で大きく息をした。
 目は章三の顔を睨みつけたままだ。
「もし、その人と何もおこらなかったら。そのときは……」
 絞り出すような声だった。
「そのときは、私の心がもたなくなる。今の状況に耐えられなくなる。気が変になる。だから、そのときは、私はあなたを……自分のこの手で私はあなたを……」
 腹の底から湧き出すような声だった。
「それが嫌なら目を覚ましてよ。何か喋ってよ。おきあがってよ。知らん顔してないで、目を覚ましてよ」
 叫んだ。
 ベッドの両脇にある、安全用の鉄パイプを両手でつかんだ。力まかせに揺すった。何度も何度も揺すった。靖子は涙を流しながら鉄パイプを揺さぶった。涙が床に飛びちった。
 靖子はさらに鉄パイプを揺すりつづける。
「文句があったら、目を覚ましてよ。文句があったら怒鳴ってよ、文句があったら、文句があったら、文句があったら……」
 むろん、章三は無反応だ。
 そのとき、誰かが部屋のなかに飛びこんできた。
「どうしたんだ、オフクロ」
 一人息子の章治だ。
 後ろから抱きとめられた。
「しっかりしろよ、オフクロ。こんなところで暴れたって、何の解決にもならないだろう。もっと冷静になれよ」
 鉄パイプから引きはがされた。
「ほら、大きく息を吸って」
 章治にいわれるまま、靖子は大きく深呼吸をする。徐々に心は落ちついてきたが、涙だけはとまらない。靖子は章治にしがみついて体中で泣いた。泣かなければ、心が折れてしまいそうだった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)