連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・後 池永 陽 You Ikenaga

「こうなったからには我慢しなきゃしようがないだろ。俺もできる限りの援助はするつもりだから。といっても、嫁の目もあるし、もうすぐ子供も生まれるし。あんまり大きな口は叩けないのは事実だけどな。だけど、俺とオフクロの二人で頑張らないと、誰も助けてはくれないから」
 章治がいたわるような声をあげたとき、白衣姿の潤一が入ってきた。
「どうしたんですか。何かあったんですか」
 二人の様子を見て、心配そうな表情を浮べて口を開いた。
「いつものことですよ、若先生。オフクロがヒステリー症状をおこして、ちょっと暴れたみたいで。でも、もう大丈夫です。大分落ちついてきたようですから」
「ああっ」
 といったきり、潤一も何を口にしていいかわからない状態だ。
「だけど、若先生。本当に何とかならないものでしょうかね。こんな状態では、俺もオフクロもどうにかなってしまう。現にオフクロはもう、頭がおかしくなりつつあるのかもしれない」
 愚痴っぽくいった。
「申しわけありません、僕の力が足りなくて。本当に申しわけありません」
 叫ぶような声をあげ、潤一は額が膝にくっつくほど深く頭を下げた。
 村川との夜勤が明日に迫っていた。

 夜間勤務の日は夕方からの出勤だった。
 靖子は自転車で今戸神社に出かけた。
 ここの神社は縁結びの神様なのだ。
 金曜日のせいなのか、境内にはかなりの人が出ていた。それも、ほとんどが女性だった。友達同士できている者が多く、一人できているのは靖子ぐらいのものかもしれない。
 自転車を境内の脇にとめ、靖子はゆっくりと拝殿に向かって歩く。
 拝殿の前に立ち、バッグから財布を取り出して、さていくら入れようかと靖子は考えをめぐらす。せっかくきたのだからと、百円硬貨を一枚、指でつまむ。勿体なかったが、わざわざ自転車を走らせて、ここまできたのだ。これぐらいは入れないと、辻褄が合わない。今日は特別な日なのだ。
 賽銭箱のなかに放りこんだ。
 両手を合せてから、靖子はふっと考えこんだ。ここで村川のことを頼めば自分は嫌な女になってしまう。悪い女ならよかったが、嫌な女だけは避けたかった。
 じゃあ何をと考えたとき、頭のなかにベッドで身動(みじろ)ぎもしないで眠っている章三の顔が浮んだ。章三の病気平癒か、村川とのことか。しばらく考えて、靖子は結局何も祈願せずに頭を深く下げただけで拝殿をおりた。
 嫌な女になることだけは免れた思いだったが、何だか途方もなく恥ずかしい気持に襲われた。そして、何となく損をした気分になった。
 靖子は思いきり強くペダルを踏んで自転車を走らせた。
 家に帰り、早めの夕食を摂った。
 歯を磨いてから、洗面台の鏡に映った自分の顔をじっと見る。やつれた顔の女が、こちらを見ていた。介護と仕事。その苦労が顔に浮き出ているように感じられた。
 だが、四十七歳にしたらまあまあだ。これでも若いころにはけっこう男たちからモテた。その名残りはまだあるはずだ。もともと、丸顔の可愛い顔立ちなので、それほど老け顔にはなっていないはずだった。化粧でごまかせば何とかなる。
 靖子は入念に顔を造る。
 陽の光の下に出ていくわけではない。夜の蛍光灯の下での勝負だ。それに若者と見合いをするわけではない。相手は靖子と同じ中年なのだ。視力にしたって、けっこう落ちているに違いない。そんなことを考えながら、靖子は入念に化粧をする。
 しばらくして鏡を凝視すると、やや厚化粧の女がこちらを見ている。やりすぎたかなと思いつつ、両目を細めて焦点をぼかして見ると、いい女が鏡のなかにいた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)