連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・後 池永 陽 You Ikenaga

「よしっ」
 とうなずき、出かける用意にかかる。
 ガソリンスタンドまでは、自転車で十五分ほど。ペダルをこぎながら、今夜麻世はくるのだろうかと靖子は漠然と考える。村川の真意を確かめるといっていたが、そんなことが簡単にできるはずがない。まして麻世はまだ高校生なのだ。いくら苦労をしてきたといっても、大人の世界では……。
 たったひとつ気がかりなのは、麻世の美しさだ。あの可愛らしさと較べられたら打つ手はない。と考えて麻世と競って勝てる相手など、そういないことに気がつき靖子は何の根拠もない安堵の吐息をついた。
 事務所に着くと村川はすでにきていて、給油機の周りの掃除をしていた。
「あっ、ごめん。ひょっとして私、遅れちゃったのかな」
 困ったような顔でいうと、
「俺が早すぎただけで、靖子さんには何の落度もないですから」
 よく通る声で村川はいい、笑顔を浮べて靖子を見た。
「それなら安心だけど。じゃあ、あとは私がやるから」
 できる限り明るい声でいうと、
「とんでもない。こういうことは新人の仕事だから。お姫様はしばらく、事務所のソファーでくつろいでいてください。看護の疲れもあるだろうし」
 村川はそういって事務所のほうに手を向け、靖子になかに入るように薦めた。
「そう。じゃあ、甘えることにする」
 靖子は村川のいう通り、素直に事務所に入ってソファーに腰をおろした。
 そろそろ村川の掃除が終るころ、靖子は立ちあがって事務所前にある自販機に行き、缶コーヒーを二本買ってきた。
 村川が戻ってきてソファーの前に立った。
 靖子も立ちあがり「ご苦労様でした」と二本の缶コーヒーを差し出した。
「甘いのにする、甘くないのにする」
 小首を傾げて訊いた。
「あっ、ありがとうございます。じゃあ、甘いほうをいただきます」
 村川は微糖の缶に手を伸ばした。
 靖子の全身が緊張した。
 村川はまた、自分の手を握るのでは。そんな期待があった。が、期待はみごとに外れ、村川は靖子の左手から無造作に缶コーヒーを受けとっただけだった。すぐにプルタブを引いて口に持っていった。やはり勝負は客がほとんどなくなる、夜の十時を過ぎてからだ。
 そんな思いに浸っていると、
「今夜の靖子さんは、えらく綺麗ですけど何かいいことでもあったんですか」
 向かいに座った村川が、突然こんな言葉を口にした。とたんに両の耳朶(みみたぶ)が熱をおびるのがわかった。
「いいことなんて、別にないわよ。ただ夜勤のときは出勤が遅くなるから、ちょっとゆっくりできたかなってぐらいで」
 本当は「村川さんと二人きりになれるから」といってやりたかったが、靖子にはそこまでの度胸も図々しさもない。
「そうですね。夜間勤務って、そういう利点ありますよね。それに忙しいのは十時頃までだけで、あとは遊び同然になるのも嬉しいですね」
 忙しいのは十時頃までだけと村川はいった、そのあとは遊び同然だとも……わざわざ、こんなことを口に出すというのは、何か深い意味があるのでは――そんなことを考えていると外でクラクションの音が聞こえた。客だ。十時頃までは、いい気分に浸っている暇などはないのだ。
 靖子と村川は同時に立ちあがって、早足で外に出た。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)