連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・後 池永 陽 You Ikenaga

 金曜日なのでいつもより客は多いかと思っていたがそんなこともなく、普段通りの混み具合だった。そして、十時を過ぎてからは客足はぱたっととだえ、村川のいう遊び同然の時間帯になった。
「十時四十分か、客もこないし。俺、男用のトイレの具合見てきます。何だか水の出が悪かったようだから」
 村川はそういって、事務所の奥にあるトイレに向かった。村川がトイレに入って五分ほどが経ったころ、
「ああっ!」
 という大声が聞こえた。
 何かがおきた。
 靖子はすぐに男性用のトイレに向かう。ドアを開けてなかに入った瞬間、太い腕に抱きすくめられた。
 村川の腕だ。村川は両腕を靖子の背中にまわして、
「最初に見たときから、好きだった」
 と耳許でいった。
 なかば予想はしていたことだったが、それが現実になると靖子も慌てる。どうしていいか、まったくわからない。ただ抱きすくめられて体を硬くしているだけだ。
 ふいに唇が柔らかいもので塞がれた。村川の唇だ。唇はゆっくりと動き、分厚い舌が靖子の唇をこじあけ、口のなかに進入してきてゆっくりとかきまわした。
 靖子の頭の芯は痺れていた。
 結婚してから章三以外の男と、こんなことをするのは初めてだった。分厚い舌は口のなかの隅々までをからめとり、靖子は村川のされるがままだった。
 靖子の意識が元に戻ったのは、村川の右手が会社のユニフォームである、キュロットスカートのなかに入りこんだときだ。
 村川の指は靖子の薄い茂みをなぶっていた。そして指は、さらにその下の部分に向かって動いていた。
「駄目っ」
 靖子の右手が村川の指を払いのけた。
「そこは、まだ、駄目」
 靖子は叫んだ。
「まだってことは、いつかはっていうことだよね。それって、いつごろ?」
 笑いながら村川が訊いた。
「もう少し先。もう少し村川さんのことを私が知ってから」
「そういうことなら、諦めて待つことにするか。もっともっと、俺のことを靖子さんが好きになってくれるまで」
 そういって、再び唇を合せてきた。
 そのとき、事務所のほうから聞き覚えのある声が響いた。
「こんばんは――誰かいますか」
 あれは麻世の声だ。いった通り、麻世がやってきたのだ。
「近所の子がやってきた」
 靖子はそういって村川の体を押しやり、急いで鏡の前に立った。ルージュがはみ出していたので、ティッシュと指の腹を使って整えた。これで何とか大丈夫だ。大きく深呼吸をしてから、洗面所のドアを開けた。
「いらっしゃい、麻世さん――でも本当にきてくれるとは思わなかった。ありがとう」
 どぎまぎしながらいったところで洗面所から村川も出てきた。
「トイレの調子が悪くて二人で見ていて、人がきたのに気がつかず、悪かったね。靖子さんの近所の子なんだって」
 という村川の顔に驚きの表情が浮びあがるのがわかった。
 麻世はブルージーンズに、洗いざらしの白の綿シャツ姿だったが、それがぴたっときまっていた。といっても、これだけの顔なら何を着ても似合うだろうけど。靖子の口から溜息がもれた。同時に村川の口からも吐息のもれる音が聞こえた。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)