連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・後 池永 陽 You Ikenaga

「あんた、スッピンなのか」
 まじまじと麻世の顔を見た。
「化粧は面倒臭いし、鬱陶しいから」
 ぼそっという麻世に、
「で、そのスッピンの美人が何をしにここにきたの」
 柔らかな声を村川はあげた。
「おじさんに、ちょっと用事があって」
 とたんに村川の顔がぱっと輝いた。
「俺に用事って、それって、どういうことなんだろう」
 上ずった声で訊いてきた。
「おじさんが、おばさんを本当に好きなのかどうかを確かめにきた。単なる遊びじゃなく、真面目に好きなのかどうかを」
 単刀直入に麻世は村川に訊いた。
 そういうことなのだ。麻世はいつも正攻法。真正面からぶつかるのが、麻世という、この変った女の子のやり方なのだ。
「どうなの。猫を被って、おばさんを騙してるの?」
 と、また麻世が訊いた。
「それは、俺は靖子さんが大好きで、決して遊びなんかじゃねえよ」
 村川の言葉つきが乱暴になってきていた。顔つきも少し険悪になっている。
「じゃあ、なんでさっきから私の体をいやらしい目つきで見てるのよ。いやらしさ全開の顔だよ」
「そりゃあ、お前。中年の厚化粧より、若いスッピン美人のほうが、男なら目がいくのは当たり前というか。男なら、誰だってそうなるさ。ただ単にそれだけの話で、だからといって俺が靖子さんを嫌いということにはならねえだろう」
 村川の弁解じみた言葉に、
「面倒臭い人だね、おじさんは。じゃあ、こういう話ならどう」
 川村の顔を真直ぐ麻世が見た。ぞくっとするほど綺麗な顔だった。
「もし私を力ずくで倒すことができたら、やらせてやってもいいけど、この話に乗ってみる気はある」
 とんでもないことを麻世がいった。
「力ずくで倒せばやらせるってか。そんないい話があるわけがねえだろ。嘘にきまってるだろ、何かの罠だろ」
 つかえつかえ、村川はいった。
「私は嘘はいわない。私がいったことは、そこのおばさんが証人になってくれるよ」
 麻世の言葉に村川の顔が凶暴性をおびた。
「本当に本当なんだな――じゃあ、乗った。俺はお前を自分のものにする」
 ざらついた声を出した。
「おばさんは、どうするの」
「あんなものは、どうでもいい。どこにでも転がってる代物だからよ」
 村川の言葉に麻世がすぐに反応した。
「だそうだよ、おばさん。やっぱり、この人はそういう人なんだよ」
 靖子の顔を真直ぐ見ていった。
 わかっていた。そんなことは初めからわかっていたはずだ。それでも自分は……靖子は唇を噛みしめた。それでもいいと思っていた。騙すなら騙しつづけてくれれば。
「てめえ、やっぱり罠だったんだな」
 村川が鬼の形相で麻世を睨みつけた。
「本当に面倒臭い野郎だな。嘘じゃねえって、さっきから何度もいってるじゃねえか。その証拠に、さっさとかかってこいよ、クソ野郎がよ」
 麻世の言葉つきが、がらりと変った。いったいこれは。靖子は何が何だかわからなくなった。



       8  10 次へ
 
〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

Back number
第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)