連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・後 池永 陽 You Ikenaga

 麻世の言葉に村川が動いた。すっと近づいて右の拳を、麻世の顔面に叩きこんできた。
 麻世の体が半身(はんみ)になって村川の懐に飛びこんだ。叩きこまれた拳を右の腕刀で受けたと思った瞬間、その右手が村川の腕を押えこむようにして右肘にかかり、左手で手首の逆を取った。
 こねあげた。村川の締まった体は一回転して床の上に背中から落ちた。
 柳剛流(りゅうごうりゅう)の投げがみごとにきまった。
 麻世の左手はまだ村川の手首の逆を取ったままだ。すぐに手首を返して村川の体をうつ伏せにした。村川は右の手首を逆にきめられ、おまけに背中には麻世の膝が食いこんで身動きできない状態になっていた。
「てめえ、いったい」
 押えつけられたまま呻(うめ)き声を出した。
「右手、折ってもいいか」
 何でもないことのようにいった。
 夢中で村川は首を横に振る。
「それとも、私の右拳をあんたの蟀谷(こめかみ)にぶちこもうか。下がコンクリートだから、多分頭蓋骨は陥没すると思うけど」
「やめてくれ、それだけはやめてくれ」
 村川が悲鳴をあげた。
「じゃあ、もうひとつだけ教えてくれるか。あんた、おばさんの財産も狙ってたんじゃないのか」
 逆にきめた右手首をぐいとひねった。
 絶叫が走った。
「狙ってた。土地家屋があるって聞いてたから。いずれ自分の物にするつもりで」
 痛みから逃れるためか、村川は早口でいった。麻世の手が村川の体から離れた。そのまますっと後ろに下がった。よろよろと村川はおきあがった。
「てめえっ」
 麻世を睨みつけた。
「まだ、やるんなら相手になってやるよ。今度は生ぬるい投げはやめにして、手加減なしの蹴りを肋(あばら)にぶちこんでやるから、かかってこいよ」
 一歩前に麻世が出ると、村川は慌てて後退った。
「やらねえよ。てめえのような化物とはよ」
 怯えた目でいってから、
「俺はもう、この会社をやめる。そういっとけよ、社長によ。やってられねえよ」
 村川はそそくさと事務所から出ていった。
「麻世さん、あなたって!」
 驚きの声をあげる靖子に、
「度の過ぎたお節介になったけど、じいさんがおばさんのことを、ちょっとのきっかけで自分で自分の命を絶つかもしれないって頭を抱えていたから。旦那さんのことはみんなで考えるにしても、おばさんのことは何としてでも止めなければって……でも、おばさんは」
 低い声で一気に麻世はいった。
 大先生がそんなことを。だが私は自分の命ではなく章三の命を。自分が死んでも息子の章治が苦労を引きつぐだけで何の解決にもならない。だから私は章三を……麻世だけは自分の境遇から、それに気づいて。
 靖子はぶるっと体を震わせた。
「でも、これでもう、おばさんも莫迦な考えをおこさずにすむだろうから」
 妙に明るい声を麻世はあげた。
 が、麻世は大きな勘違いをしていた。
 靖子は村川と深い関係になったら、その罪ほろぼしで章三の面倒を死ぬまで見ようと考えていたのだ。
 それが、逆の結果になった。



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)