連載
下町やぶさか診療所
第四章 底の見えない川・後 池永 陽 You Ikenaga

 次の日、靖子は会社を休んだ。
 思いつめた顔で章三の入院している病院に向かった。
 裏手にある、長期入院者用の個室の扉を開けて、なかに入りこむ。ゆっくりと歩いて章三の眠っているベッドの前に立つ。
「あなた、約束を守りにきましたよ」
 抑揚のない声でいって、提げていたバッグをおろし、なかを開いて何やら光る物を取り出した。
 出刃包丁だ。
 靖子はそれを逆手に持って強く握りこんだ。
「間違いを犯したら、その罪ほろぼしのため、あなたの面倒を死ぬまで見ようと思っていたんですが、間違いは結局、おきませんでした。私には悪事にすがって生きていくことさえ、許されないようです。だからもう、この方法しかありません。もう限界です。疲れました」
 靖子はぽつりと言葉を切って、後の言葉をつづける。
「本当に疲れました。あとはこの包丁を振りあげて、あなたの胸を刺し貫けば、それでみんなが楽になれるんです。私も章治も、そして、あなたも。ですから……」
 靖子はゆっくりと包丁を振りあげる。
 目が据っていた。
 感情のない目のようにも見えた。
 動揺もないように見えた。
「参ります」
 低く叫んだ。
 握っている包丁の柄に力を入れた。
 そのとき、あり得ないことがおきた。
 それまで身動ぎもしなかった章三の体がわずかに動いた。ゆっくりと両目が開いていった。おきるはずのないことが、おきた。
 見開いた章三の目が靖子を見ていた。
 奇跡だった。
「靖子、お前……」
 嗄(しわが)れた声が出た。
 靖子の持つ包丁が、ぴくりと動いた。
 どこからか泣き声が聞こえた。

(了)



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〈プロフィール〉
1950年愛知県豊橋市生まれ。グラフィックデザイナーを経て、コピーライターとして活躍。98年「走るジイサン」で第11回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2006年、『雲を斬る』で第12回中山義秀文学賞を受賞する。著書に『ひらひら』などがある。

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第八章 麻世の決断・後(最終回)
第八章 麻世の決断・前
第七章 スキルス癌・後
第七章 スキルス癌・前
第六章 妻の復讐・後
第六章 妻の復讐・前
第五章 幸せの手・後
第五章 幸せの手・前
第四章 底の見えない川・後
第四章 底の見えない川・前
第三章 怒る子供・後
第三章 怒る子供・前
第二章 二人三脚・後
第二章 二人三脚・前
第一章 左手の傷(後)
第一章 左手の傷(前)